同時代の映画を観ること

世界は「使われなかった人生」であふれ

沢木耕太郎さんの映画エッセイ集『世界は「使われなかった人生」であふれてる』*1幻冬舎文庫)を読み終えた。
本書は沢木さんが『暮しの手帖』誌に連載した「映画評」のうち30篇を選んで、2001年11月に暮しの手帖社から単行本化されたものの文庫版である。たしか単行本になったとき、最近すっかり使わなくなってしまった掲示板でこの本を薦められ、そのさい色よい返事をしたものの、結局買わずじまいで失礼してしまった。あれから5年半。早いものだ。
言い訳がましくなるが、当時は現在よりも映画に対する関心は低かった。また、沢木さんの仕事に対する関心はあれど、とりあげられている映画が洋画の最新作ということも、買うことを躊躇させた理由のひとつだった。観ない映画の映画評を面白く読めるのか。
むろんこれが自分でも程度の低い愚問であることくらい承知している。「読まない本の書評集」だって、書き手によっては買って面白く読んでいるではないか。それと同じこと。沢木さんの仕事が好きならば、対象が何であれかまわないのではないか。
ついでにひとつだけ加えれば、いかにも「暮しの手帖」的な装幀も、沢木さんの雰囲気にそぐわない気がして、買いにくかった。別に「暮しの手帖」的な装幀が嫌いなわけではないけれど、同社から出す単行本すべてが「暮しの手帖」的でもなあ、と思う。われながら身も蓋もない不満だ。
だから、「暮しの手帖」色から離れたような文庫版を一見して、買ってみようかと思い直した。むろん安価だというのが前提条件である。買って読んでみて、やはり単行本時のためらいは「読まず嫌い」に過ぎなかったことを確認した。この5年間で、触れられている映画のうち観たものがゼロであることには変わらないが、十分楽しめる。
これは、沢木さんが映画の骨組みを見事なまでにつかみとり、その骨格を自らの来し方や人間の生き方のある一面に重ね合わせるという手法によるところが大きい。もともと依頼は「映画評」だったが、沢木さん自身本書が「映画評」であることを否定している。

この「映画評」が批評でないのは無論のこと、もしかしたら感想文ですらないのかもしれない。私にとってこの一連の文章を書く作業は、心地よい眠りのあとで楽しかった夢を反芻するようなものだった。(「あとがき」)
本書を読んで思い出したのは、目黒考二さんの「読書連想型」エッセイだった。読んでいる小説のある一部に鋭く反応し、それにまつわる過去の思い出などが芋づる式につなげられる体の文章。沢木さんの場合、目黒さんほどディテールの細かな点に反応するのではなく、映画の骨組み全体をうまく敷衍させており、対象となる映画から脱線するような挿話は抑制されている。
映画に即して何かを語る。読書に即して何かを語る。そうしたスタイルが好きな私は、相も変わらず、なぜ単行本時点で読まなかったのか後悔したのだった。
本書のなかでは、クリント・イーストウッド監督の「許されざる者」に激しく心を揺さぶられた沢木さんが同作品を激賞する一篇「もう終わりなのかもしれない……」が印象深い。クリント・イーストウッドの西部劇に愛着があり、昔の作品から観つづけてきた沢木さんは、「許されざる者」に異様なほど反応する。
銀座を一時間ほどぶらぶらと歩きまわり、私はようやくひとつのことを理解するに至った。それは「同時代」ということだった。これこそが同時代に映画を見る楽しみなのではあるまいか。(148頁)
「かつての名画」として「許されざる者」を観る人にはわからない、クリント・イーストウッドという俳優が演じてきた役の歴史を自分の体の中に重ねてきたからこそ呼び起こされる深い感動。
ひるがえって自分の場合、いまのところ、あらかじめ「同時代」というものを排除することでしか映画に接することができない。映画好きとして邪道とまでは言えないにせよ、映画の楽しみ方の重要な要素を拒否することでしか受け入れられない、ある種不幸な享受の仕方をしていることを思い知らされたのである。