鉄道文化史家の少年時代

鉄道ひとつばなし2

最近「あれから○年、早いものだ」などと時間の流れの早さに思いを馳せるような、懐古的な物言いが多くなったと自覚している。このさいだからもう一回似たようなことを言わせてもらえば、原武史さんの新著『鉄道ひとつばなし2』*1講談社現代新書)に接して、前著の刊行から4年が経ったという序文に、読者としてのわたしも「あれから4年か…」と時の流れの早いことをまたしても実感させられた。
前著の感想は2003/9/21条に書いた。これを見ると、すでに前著のとき講談社現代新書のカバーデザインが現在のものになっている。デザインが変わって4年近くになるわけで、これまた早いものだと思わずにはおれない。
前著に知的興奮を味わいながら読んだことは、そのときの感想に詳しい。今回の第二弾でもそうした興奮度は変わらないが、内容的には、前著でとくに面白味を感じた“鉄道文化史”的な文章にくらべ、“鉄道業界批判(時評)”的な文章の比重が多くなっていたようなのが、ちょっと物足りない。
原さんの本業は歴史研究者だから、歴史をきちんと踏まえて鉄道文化を論じられる書き手がほかに見あたらないのだろう、いわゆる「識者」として、鉄道業界に起きたトピック的な出来事(たとえば福知山線事故、Suica導入、阪神・阪急合併)に対する論評と提言が陰に陽に求められたのに違いない。もちろん原さんご自身がこうしたトピックを積極的に連載に取り入れたということもあるだろうが。
前著の感想を読み返していると、鉄道マニアに女性がいない理由を原さんがジェンダー論に絡めて論じた点を取り上げている。今回の続篇ではここが大きく違う。いくつかの文章で原さんは、鉄道マニアに女性が増えつつあることを、酒井順子さんらを例にして指摘しているのである。
その流れでとても面白いのは、第六章に収められた「鉄道趣味と女装趣味」という一篇。原さんは、「鉄道マニアになる男性には、女装趣味をもった男性がかなり含まれている」という事実に気づき、「女装趣味をもつ男性は、なぜ鉄道マニアになりやすいのか。あるいは、鉄道マニアの男性は、なぜ女装趣味にはまりやすいのか」という意想外な設問を立て、その理由を検証しようとする。
両者の共通点を抽出して論理的に因果関係を解き明かす過程は、まさに知的興奮に値する。男女の性差や性的趣味と、これとは一見関係なさそうな社会現象を結びつけ、意外性のある因果関係を解き明かすという論法は、鹿島茂さんを髣髴とさせる。
原さんは自分が鉄道マニアではないことを力説する。文章を読むと明らかに鉄道マニアじゃないかと突っ込みたくなるのだが、次の文章を読むと、鉄道マニアというよりも、子供のときから根っからの「鉄道文化史家」だったことを知り、たまげるのである。
小学五年生のとき、父親と一緒に、名古屋から津までわざわざ遅い国鉄に乗って行ったときの体験談。

この列車の醸し出す時間の流れは、明らかに一九七三年ではなかった。それは天皇が現人神と呼ばれ、伊勢神宮に参拝するのが国民の義務とされ、東京から伊勢まで列車が走っていた時代の空気を濃密に残していた。私は白熱灯が淡く光る車内を眺めながら、はるかな過去へと想像力を膨らませた。(「名古屋発天王寺ゆき客車列車」)
最初読んだときは、「おいおい、小学五年生が「天皇が現人神と呼ばれ…」と考えたり、「はるかな過去へと想像力を膨らませ」るのか」と思い、現在の自分から過去の自分を客観化してのレトリックかとも考えたけれど、読んでいくうち、原少年なら本当にそうだったのかもと信じたくなってきたのである。
たとえば戦前に製造された客車列車に乗るためわざわざ新宿駅まで乗り越して、一人そこに座っている原少年の姿。
ここはあたかも、戦前から戦後を眺めることができるような、特権的な場所だったように思う。国鉄に昭和の歴史が凝縮されているという私の確信は、思えばこのときの体験に根差している。(「国鉄と昭和」)
これは明らかに当時の少年がそう思っていたという意味で書かれていない。でも、原少年ならばありえるかもと惑わせる奇妙なリアリティがある。