仙台で源氏鶏太を買う

御身

先日読んだ重松清カシオペアの丘で』下*1講談社)のなかに、こんな一節があった。

空港のビルもあの頃とは違っている。地下鉄の路線もずっと複雑になったし、超高層のビルも増えた。だが、美智子が見るひさしぶりの東京は、なにかが増えた街ではなく、なにかが消えてしまった街になってしまうのだろう。
ここから、その一週間前、ある寄合に出席するため仙台を訪れたときのことをはからずも思い出した。仙台に住んでいた頃は自動車に頼りきりで、町を歩くことがあまりなかった。ただ逆に、東京に移り住むようになってから仙台を訪れる機会があると、たいてい駅から自分の学んだ大学のある城跡付近まで歩く。この程度の歩きを厭わなくなった。
青葉通りを覆うケヤキ並木のトンネルを抜けると、正面に緑に包まれた城跡があり、その手前に広瀬川の清流が流れている。渡ろうとしている橋の右手、川のひとつ上流に架かっている橋との間の河川敷に小さなグラウンドがあって、むかしそこで野球をしたとき、橋の防音壁に当たるのではないかと危ぶまれるほど素晴らしい打球をかっ飛ばしたことをいまでも憶えている。左中間方向に飛んでいった打球の軌跡をいまでも時々思い出すほどだ。
そして橋を渡った先に体育館があったはずなのだが、すっかり広大な更地になっていたことに驚いたのである。この体育館では、バレーボールをした記憶が鮮明に残っていたのだった。
だからわたしにとって仙台の町は、「なにかが増えた」町ではなく、「なにかが消えてしまった」町にほかならない。増えたことに注目するか、消えたことに注目するかで、町に対する感慨がまったく違うものになってしまう。
土曜日の寄合が終わった後山形の実家に帰って一泊し、翌朝ふたたび仙台に出、バスに乗って古本屋萬葉堂書店鈎取店を訪れた。最近は古本への関心が下向きになっていることもあり、わざわざ行くかどうか迷ったが、せっかく来て、時間もあるのだからと、訪れてみたのである。
小一時間ばかり店内を見て回って、そのとき購入したのは、源氏鶏太の小説ばかり4冊。『停年退職』(→5/28条)の影響で源氏作品が気になっている。単行本も文庫本も新書もけっこうの量があったので何を買おうかあれこれ迷いながら選んだのは次のものだった。

  • 『御身』(中央公論社)300円
  • 『堂々たる人生』(集英社)500円
  • 『浮気の旅』(角川文庫)150円
  • 『三日三月三年』(角川文庫)190円

単行本2冊は、いずれも佐野繁次郎装幀にかかる。源氏鶏太作品の装幀を多く手がけている佐野繁次郎だが、今回見つけたのは上の2冊のみだった。それに加え、『三日三月三年』の単行本も佐野風なので確認したが、これは別人によるもの。ただ内容的に面白そうだったから、文庫版で購入する。『浮気の旅』は短篇集。表題作は以前津島恵子河津清三郎の映画を観て面白かったものだ(→1/7条)。
上記4冊のなかで、もっとも気になったのは『御身』である。函入本で、函から取り出して中を見てみると、精興社の活字で印刷されている。源氏鶏太の小説と精興社。ちょっと珍しい組み合わせではないかと心が動いた。たしかこの作品は発表当時センセーションを巻き起こしたと何かで読んだ記憶がある。
何が物議を醸したかと言うと、虎ノ門の商事会社のBG(いまはOL)の主人公が、身体を売ってお金を得るという物語だからだ。両親を亡くして勤め人をしている弟と二人暮しの主人公は、ある日弟から、上司の課長から預かった30万円を紛失してしまったと相談される。その金は近々結婚式を挙げる予定という上司の娘の結婚資金だったため、すぐに穴埋めするよう強要されたものの、金の工面ができず弟は途方にくれていた。
そこで姉は、可愛い弟のため自分の身体を30万円で売ることを思い立つ。あるバーのマダムに相談をもちかけたところ、たまたま居合わせた電気会社社長が、6ヶ月だけ彼女を好きにできるという契約を受け入れ、30万の小切手を即座に切ったのである。
会社の同僚に好きな人がいて、彼とは接吻まで許していたが、それ以来汚れた自分は彼とは交際できないとすっぱり諦め、あえて遠ざかろうとする。最初は罪悪感があった売春も、社長と逢瀬を重ねるにつれて性の喜びを知り、積極的に自分から誘うようになる。6ヶ月経ったら綺麗さっぱり別れ、お互いを忘れるという約束はどうなるのか…。
婦人公論』連載であることも話題となったのか。若い女性が自ら身体を男に売って金を得、愛欲におぼれてゆくというストーリー、援助交際という言葉ができた最近では驚くにあたらないが、当時(1962年)はじゅうぶんに背徳的だったのだろう。また、明朗サラリーマン小説の書き手たる源氏鶏太が…という点もあったのか。
背徳的だとは言っても、結末はいかにも源氏鶏太らしい希望に満ちた未来が見えるような、後味がいいものだから救われている。
『御身』というタイトルも絶妙だ。二人称に敬意を込めた呼び方。30万円出してくれた見ず知らずの男が、6ヶ月のあいだに「御身」と恋い慕われるまでの男女関係の変化。男にとっては身勝手な妄想にほかなるまい。いまの世の中、この小説はまた別の意味で糾弾されることになるのかもしれない。