40歳の過去は未来は

カシオペアの丘で(上)

重松清さんの新作長篇カシオペアの丘で』*1・下*2講談社)を読み終えた。
ガンに冒され、余命わずかを宣告された男が家族や過去と向き合う物語…。そんな宣伝文句を読み、正直に言えば「またか」と思った。シチュエーションは逆だが、ベストセラーとなった(重松さんの小説は最近どれもそうか)『その日のまえに』も似たような設定だから、家族であることの幸せや悲しみ、生きることの喜びや辛さ、死を前にした人間の強さや脆さなど、ドラマティックな筋立ては、余命何ヶ月とあらかじめ「死」を目の前に突きつけられ、それに向き合うことを余儀なくさせるガンのような契機をもってこなければ実現しないのか。たとえば誰もが予見できない「突然死」のようなかたちで人生の幕を下ろした人間とその家族では、重松的ドラマは創り得ないのか、ひねくれているけれども、そんな疑問が頭をかすめすらしたのである。
でも、読み始めたらそんなことはどうでもよくなった。食傷したふりをして斜に構えていた姿勢を力強く正され、正面を向かされたかのように、そのまま上下巻一気に読んだ。
北海道の寂れかけた炭坑の町に住む男3人女1人の仲良し4人組が、親に嘘をついて、夜更けに近所の小高い丘にのぼり、夜空に瞬く無数の星たちを眺めるところから物語は始まる。この少年少女たちの約30年、彼らの生きた時間の堆積と、彼らが見舞われる辛い別れが物語の主題である。
星空を眺めた丘を、彼らは「カシオペアの丘」と名づけた。彼ら小学四年生たちがカシオペアの丘に登ったのは、1977年。「一九六九年のアポロ11号の月面着陸のときには四人とも一歳や二歳だったので」という記述を目にしたとたん、もう物語のとりこになる。わたしも同じ年齢だからだ。
読んでいくとまさしく主人公たちはわたしと同学年、彼らが40歳を迎えるという年に舞台が設定されてある。重松さんはご自分と同年配の人間を主人公に設定することが多いから、重松さんより4歳下のわたしは、だいたい重松本を文庫で読むくらいのタイミングだと、主人公と自分の年齢が重なることになり、身につまされることが多い。
道理で本作品は、書かれたのが2002〜2004年、山陽新聞信濃毎日新聞など地方紙に連載されたあと、全面的に改稿されたのち、単行本化されたものだという。執筆時点の重松さんの年齢は、いまのわたしの年齢に近かったわけだ。
カシオペアの丘で(下)今年40歳を迎えるという4人組のなかの一人の男が、余命わずかという肺ガンを宣告される。彼には妻と小学四年生になる息子一人がいる。カシオペアの丘に登ってから現在までの30年の間に、家族に話さず心にしまっている大きな傷と懐かしくてほろ苦い思い出があるらしい。
同じ年齢の人間が胸に抱く家族への思い、過去の時間への思い、家族や過去を思いやる想像力に強いリアリティを感じさせられる。だからこそ重松さんの小説にこれまで惹かれつづけてきたのだし、重松さんの小説を読むと、平凡な日常を積み重ねることこそが幸せにほかならず、人間は得てしてそれを失うときにそのことに気づくのだと教えてくれる。
ただただ生活することに忙しくてふだんはあまり頭に思い浮かんでこないような、家族と暮らすことの幸福感が、リアリティのあるシチュエーションのなかで語られるから、同年代のわたしにとって、重松さんの小説は自分が拠って立っている時間や人間関係の大事さを気づかせるとても大事なきっかけとなるのだ。
余命わずかしかない主人公がサッカーに夢中になっている一人息子を見て思う。

ずっと見ていたい。おまえが大きくなって、好きな人ができて、おとなになるまで、ずっと見ていたい。
親とはそういうものだろう。
幼なじみの女の子と運命的な再会をした大学キャンパスを訪れ、そこにいた後輩たちの姿を眺めての述懐。
そうだったな。僕だってそうだった。学生時代は、おとなの存在など目に入らなかった。背広にネクタイ姿で会社に通うことが、ちょっと考えればなによりもリアルなはずの未来だったのに、それを自分と結びつけることはなかった。身勝手なものだった。ひとより図抜けた才能や強烈な野心があるわけでもないのに、ひととは違う人生を歩むんだと決めつけていた。ずうずうしかった。甘かった。若かった。すべてをまとめて、要するに、生きることに対して傲慢でいられたのだと思う。
40歳になると、「生きることに対して傲慢で」はいられなくなる。でもそのことに気づくかどうか。この主人公は死に直面して達観した。
死という人間の限界と、星という永遠の象徴の対比。
傷つけて、傷つけられて、悲しい思いをさせて、悲しい思いをさせられて、だからひとは遠い昔からの物語を語ってきたのだと思う。太陽が沈んでから空に浮かび上がる星たちに、悲しい神話をあてはめてきたのだと思う。
例によって、読みながらこみ上げるものがある。電車ではぐっと涙をこらえて読み、家では家族が外出しているときに一人涙を流しながら読み進めた。
そんなときにかぎって、妻の知り合いから、妻の忘れ物を届けたいという電話が入った。車で家の近くまでわざわざ届けに来てくださるという。親切に感謝すべきなのだが、一人のとき誰憚らず存分に涙を流しながら『カシオペアの丘で』を読んでいたときだったから、せっかくの読書を中断しなければならなかったうえ、泣いたことで充血し腫れぼったくなった目で外に出て人に会わなければならなくなったことが鬱陶しかった。でも仕方ない。さっと冷たい水で洗った顔で笑顔をつくって忘れ物を受け取り、家に引き返して本を開く。そしてまた涙。
まいった。本当にまいった。今年40歳を迎える身として、40歳を迎える男たちの過去と現実、妻や子どもに対する気持ち、親や郷里に対する気持ちをこのように見事なほどリアルに描かれてしまうと、脱帽のほかない。
涙だけでなく、何度胸がきゅんと締め付けられたことか。戻れない過去、見えない未来、現在を生きる人間のもどかしさ。40歳という節目にある人間が抱く、戻らない過去を思うときの焦燥感と、行く先が見えて来つつある絶望感。だからこそいま現在を生きる喜びを感謝するといった、様々な感情がないまぜになった複雑な心境。その意味では、これまでの重松作品とはまた違った読後感と充足感をおぼえ、本を閉じた。