松本清張と源氏鶏太

「黒い画集 あるサラリーマンの証言」(1960年、東宝
監督堀川弘通/原作松本清張/脚本橋本忍小林桂樹原知佐子中北千枝子西村晃/織田政雄/中村伸郎菅井きん/三津田健/江原達怡小池朝雄平田昭彦佐々木孝丸中丸忠雄

大傑作のサスペンス・ミステリ映画だった。内容を説明してしまうとボロを出しそうだから、あくまで簡単に。新丸ビル内にオフィスがある大企業の管財課長小林桂樹が主人公。同じ課の部下であるBG原知佐子と不倫関係にある。
仕事帰り、新大久保にある原のアパートに立ち寄った小林が、そこからの帰途、自宅近所に住む保険外交員織田政雄とばったり出くわし、つい挨拶してしまうことから生じる不安。その織田が、その日の同じ時間帯に向島で起きた主婦殺害事件の犯人として逮捕されるが、アリバイの参考人として織田から挙げられた小林は、不倫関係が明るみに出ることを恐れ、織田とは会っていないと供述してしまう。その偽証が結局…、という物語。
よく練られたシナリオはさすが橋本忍さんだ。最後10分くらいの結末部分に「見事!」と唸った。
停年までに部長には昇進できるだろうという会社での立場と、平穏な家庭生活(妻が中北千枝子)を失いたくない、いっぽうで若い原知佐子との不倫関係も続けたいという中年男(42歳という設定)の身勝手な保身。よくよく考えれば「おまえが悪いんだ」という身勝手な保身行為なのだけれど、板挟みにひどく悩まされているように見せ、同情させてしまう小林さんのシリアスな演技が素晴らしい。
小林桂樹・草壁久四郎『演技者 小林桂樹の全仕事』*1ワイズ出版)によれば、明朗なサラリーマン役者として売り出していたところに持ち出された初めてのシリアスな役柄だったという。

でも、今までの映画で僕が出てきただけでお客さんはすぐギャハハって笑うんですよ。これは果たして、お客がついてくるかどうかって、そういう不安があった。だけど、自分の中にこういうものもやっておかなくちゃいけない気持ちは大きくあったし、魅力はあるんですよね。(181頁)
映画の中に小林さんが登場してギャハハと笑いが出てくるという、そうした同時代的経験はないけれど、たとえば成瀬巳喜男監督の「驟雨」や千葉泰樹監督の「大番」などでは、小林さんが登場すると映画館内の空気が一瞬ゆるむ、そんな雰囲気を感じたことはある。昭和30年代前半は、それがもっと強烈だったのだろう。
ただもちろんこの作品で、小林さんが登場して笑いが生じることなどありえないだろう。同じ路線の映画としては、成瀬巳喜男監督の「女の中にいる他人」を思い出す。
意図したわけではなく、たまたま源氏鶏太の小説を読んだあとに松本清張原作の映画を観た。同じような背徳的な恋愛を取り上げるのでも、源氏鶏太松本清張ではこうも違うのかと、そのくっきりとした対比に、いろいろ考えるところがあった。
要するに対比とは言っても、両者は60年代的な社会におけるポジとネガの関係に過ぎないのである。だからこそ二人の作品は爆発的に売れたのだろうし、映画化もされたのだろう。それなのに現在、松本清張だけ復権して、源氏鶏太はあまり顧みられないというのは不当である。松本清張がいま読んでも面白いのと同じように、源氏鶏太もそうだと思うのだ。
かつて中公文庫から、松本清張源氏鶏太のエッセイ集が同時刊行されたとき、「なぜ源氏鶏太なのか」と訝ったことがあるが(→2004/12/7条)、この二人は並べられなければならないというのが、今回の本と映画でよくわかった。中公文庫のセンスが絶妙だったのだ。
その意味で、『BOOKISH』がウェブの読書サイトの延長線上にあって、そのアマチュアリズムを楽しんでいた頃の編集人八子さんが、一時期源氏鶏太のサラリーマン小説を特集に取り上げたいとおっしゃっていたのは、いまふりかえっても炯眼だと思わずにはおれない。
源氏鶏太が、後年明朗サラリーマン路線のネガとして書き始めるのが、同じサラリーマン物であっても、出世競争に敗れた者の怨念が幽霊になったといった幽霊物、幻想的な小説だったのは興味深い。松本清張的陰画、リアリティのある社会派サスペンスが指向されないのである。このあたりから、松本清張源氏鶏太の資質の違いに切り込めそうな気がする。