内田百間全集

内田百間全集

近々引っ越しするため、本の整理をしている。「残りの人生で読むか読まないか」を基準に、これまでにない大粛正を断行するつもりで、部屋にある本一冊一冊を仕分けしている。
ところが捨てられない性分が災いしている。たとえ残りの人生で読まなくとも、本棚にあるその本のタイトル、姿形を見ているだけで、その本をかつて読んだときのこと、あるいは買ったときのことが思い出され、それだけで頭のなかの世界が広がり、深まることに気づいた。大粛正方針はどこへやら、という具合。
長らく机の下の空間、足もとに積んでいた、ちくま文庫版『内田百間集成』を取り出し、段ボール箱に詰める。無事全巻ばらばらにならず揃っていたことを確認してホッとする。ついでだからと、スライド書棚のほうに並べていた福武文庫版の百間著作も一緒に箱詰めする。
そのほか、新潮文庫版や河出文庫版のアンソロジーも横置きに並べていたので、それも一緒にする。収まりきらなかった旺文社文庫版百間著作を眺めながら、「同じ著作、同じ作品をいくつものヴァージョンで所有していることに、はたして意味があるのだろうか」という疑問がいまさらながら浮かんできた。でも、こればかりはどうすることもできないのである。
書棚をひとつひとつ片づけようとしている。まず入口そばにある書棚だ。書棚の前に積まれている本から箱詰めする。ここには松本清張結城昌治佐野洋といったミステリ作家の文庫本が多い。映画関係の著作もここに密集している。
つぎに書棚の前列にならんだ文庫本を片づける。講談社の『江戸川乱歩推理文庫』や、木山捷平獅子文六らの作品がまとめて並べてあった。これらを取りのけて、久しぶりに顔を出したのが、全集群だ。
講談社版『内田百間全集』がある。文庫版で幾種類ものヴァージョンがあるというのに、全集を買っているという愚かな行為。でも、真っ赤な布貼りの本を手に取り、二段組で正字旧かなの版面を見ていると、なんともいえず豊かな気持ちになってくるのである。やはり百鬼園先生の文章は、こういう本で読まなければならないのかも、と。