感想が書けない本

文人たちの寄席

矢野誠一さんの文庫新刊文人たちの寄席』*1(文春文庫)を読み終えた。本書については、先日書友ふじたさんが次のように書かれており(id:foujita:20041008)、深い共感をおぼえた。

文人たちの寄席』は白水社の元版を持っていて、西荻音羽館で、こういう本があったなんて! ととても感激して即購入したのをよく覚えている。以来とびっきりの愛読書だった。部屋の本棚の目立つところに、矢野誠一さんの文春文庫がズラッと並んでいるところがあって、そこに新たな1冊が加わるときはいつも嬉しい。次回は『戸板康二の歳月』だといいなあ。
私の場合、白水社の元版*2に出会ったのは赤羽の鳥海書房*3だった。記録によれば2001年7月のこと。「こういう本があったなんて!」と感激したのはまったく同じだし、次回は『戸板康二の歳月』を望むのも「右に同じ!」と賛成票を投じたい。
矢野誠一・文春文庫コーナーについてもやはり似た感慨を持つ。文春文庫の矢野さんの本はこれで11冊目だ。オレンジ色の背が書棚の一郭にずらりと並んでいる隣に読み終えた本を加えるときの充足感。私の書棚の矢野誠一コーナーは、同じ段に鹿島茂さん・川本三郎さんの著作も並んでおり、わけても好きな場所なのだった。
文春文庫の矢野さんの本は古本屋で見かけるたびに買い求めすべて揃っているのだが、その後も帯付き美本を見かけたら買い直すことを繰り返し、いまや2冊目の『さらば愛しき藝人たち』を除きすべて帯付きというところまでたどりついた。
さて、「とびっきりの愛読書」という点だけ、多少の留保をつけなければならない。とはいえ私は、『BOOKISH』第5号落語本特集*4所収の「私が愛した落語本」で本書を紹介し、「日本文学を「寄席」という切り口で捉える魅力的な本」と書いた。こう書いた時点で私もまた本書を「とびっきりの愛読書」と考えていたからこそ、同誌で推したのだ。実際、初読以来、幾度かページをめくり返し拾い読みを楽しんだ記憶がある。
ところが今回購入・読書記録を調べ意表をつかれた。かつて自分が読んだ記録を見て意表をつかれたというのもおかしな話だが、すっかり初読当時のことを忘れてしまっているから、そう表現するしかない。というのも、期待度★5つに対し、読後には「★★★☆☆」としているからだ。私の場合読後の星印は良い悪いでなく、期待度との格差を示しているから、元版は期待の大きさからかけ離れていたと判断したわけである。
極言してしまえば「期待はずれ」という初読時の印象から、いつしか記憶はねじれ「とびっきりの愛読書」の位置へと収まっている。不思議なことだ。読み終えた日(2001/8/6)あたりの旧読前読後を探しても、本書の感想は見あたらない。
今回以上の経緯を念頭において再読した。比較的私の好きな文人たちの寄席経験を書いた第1部「文人たちの寄席」と、個別の作品に見える舞台・映画の鑑賞体験を追った第2部「名作のなかの藝能」いずれも面白い。と同時に、初読時「期待はずれ」の評価を下し、感想を書かなかった理由も何となくわかってきた。理由を「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のだ。
この心理は、解説の坪内祐三さんの読後感とそうかけ離れたものではないらしい。坪内さんは本書を「仕事を忘れて、面白く読みふけってしまった」にもかかわらず、「いざ「解説」を書こうと思って、困っている」と書く。いつも付箋を貼りながら本を読み、貼った付箋をたどって解説文を構想するはずが、通常平均20枚の付箋を貼るところ本書では計6枚にしかならなかったという*5。私も貼るべき付箋を扉に貼り付けて準備していたのだけれど、使ったのはたったの1枚だった。
坪内さんは「矢野さんの文章はゴツゴツしていない。本当にすらすらしている」と言う。だから本書もすらすら読み終え「あ〜楽しかった」と読後感を漏らす。矢野さんの本の一般論としてこの点を否定するものではないが、本書に限っては、かなり硬派で「ゴツゴツ」していると思うのだ。表面上すらすらと読み進めることができたいっぽうで、後ろをふりかえると、笊の目からこぼれたように読み残した部分がごろごろと転がっていた、そんな印象。
決してつまらないというわけではない。とても禁欲的実証的に文人たちと寄席体験の関係を綴った結果、矢野さんの他の著作に見られるような実証的な厳格さ*6と「遊び」のバランスが崩れてしまった言えないだろうか。したがって通読すると「ゴツゴツ」した硬派な印象を抱き、感想が書きにくいのである。
つまりは通読向きではないということか。今回文庫版による再読で、初読以来の認識のズレを自分自身で修正することができたので、今後は「とびっきりの愛読書」として、何度も手にとって拾い読みするような本の位置に正式に収まったと、胸をはって言うことができる。
なお私がたった1枚付箋を貼った箇所というのは、第2部「名作のなかの藝能」中の「川端康成『浅草紅團』」で、「この頃(昭和4年頃―引用者注)から、日本でも西洋暦による年号を使うことが、ひとつのモダニズムであるような風潮が生まれていた」というくだり(146頁)である。『浅草紅團』のなかに、「一九二九年型の浅草」「一九三〇年型の浅草」という表現が出てきたことに関しての指摘だ。
和田誠さんによるカバーイラストには、本書第1部に取り上げられた文人たち(帯に名前が登場する永井荷風志賀直哉夏目漱石芥川龍之介内田百間谷崎潤一郎)6人の似顔絵を従えて、噺家とおぼしき人物1人が扇子を煙管に見立てて吸っているイラストがあしらわれている。この噺家は誰をモデルにしているのだろう。乞ご教示。

*1:ISBN:4167460114

*2:ISBN:4560039860

*3:最近赤羽を訪れてもこの店はいつも開いていない。店じまいしたのだろうか。

*4:ISBN:4894920468

*5:こういう細かなところを書くのが坪内さんならではのセンスで、愉しい。

*6:坪内さんは矢野さんを「学究膚」と呼んでいるが、これに通じる。