渾身という生き方

幸田文のマッチ箱

いま、幸田文作品が読みたくてムズムズし、我慢できない心持ちになっている。わたしをこんな状態にさせたのは、ほかでもない、村松友視さんの新著幸田文のマッチ箱』*1河出書房新社)だ。
たまたま読んでいる本のなかに幸田文さんの文章の一節が引用されていたりすると、ビリビリと感電したかのような衝撃が走って、猛烈に幸田さんの作品を読みたくなることがある。そんなときのために先年復刊・重版された『幸田文全集』(岩波書店)を買いつづけてきたというのに、いざすべて揃ってみると、書棚の奥に大事にしまい込み満足してしまう。
だから今回村松さんの本を読んですぐ全集を取り出すことができなかった。全集を引っぱり出すためには、まずその前にずらり並ぶ文庫本を取り除けるという作業が必要になるから、億劫になってしまうのだった。
かわりに、文庫書棚の“幸田家四代コーナー”から文作品を取り出してパラパラ眺めたり、書棚天板の上に並べてある幸田さんの対談集『幸田文対話』*2岩波書店)や娘青木玉さんの対談集『祖父のこと 母のこと』*3(小沢書店)を手にすることで、かろうじて渇を癒すしかなかった。
村松さんと幸田さんといえば、名著と言うべき『夢の始末書』(角川文庫版*4ちくま文庫*5、旧読前読後2002/7/29条参照)で語られるエピソードが印象深い。
中央公論社の編集者だった村松さんは、小石川の共同印刷へ出張校正に行ったおり、時間を見つけては近くの幸田邸(旧蝸牛庵)を訪れ、文さんと話すのが楽しみだったという。そこで村松さんの目をひいたのが、千代紙が貼ってあるマッチ箱だった。銀行でもらってくるマッチが味気ないので、自ら千代紙を貼ってアクセントをつける。
村松さんはこれを気に入り、訪れるたびに頂戴するようになる。ある日急に思い立って電話を入れて訪れ、いつものマッチを手にすると糊が乾いていない。訝る村松さんに文さんは照れ臭そうに「あんたがあんまり急に来るもんだから、いそいで貼ったのよ」と答えた。
唐十郎野坂昭如田中小実昌深沢七郎武田百合子永井龍男色川武大赤瀬川原平吉行淳之介など、彫りが深く印象的な挿話に富む『夢の始末書』のなかでも、白眉というべき挿話のひとつだろう。
幸田文のマッチ箱』という書名は、言うまでもなくこの挿話によるものであり、村松さんの幸田文をめぐる旅も、ここで印象づけられた幸田文の姿が出発点となっている。本書において村松さんは、『みそっかす』「あとみよそわか」『流れる』『おとうと』『崩れ』『きもの』といった代表作を読み込みながら、幸田文という一人の女性作家の生を追いかけ、いまなお魅力を失わず独特の位置に立つこの作家の特質を浮き彫りにする。本格的な、読みごたえのある評伝だった。
作家論・作品論を含みこんだ評伝として特筆できるのは、結婚と性の問題が幸田文の作品世界にどのような影響を与えたのか、長篇『きもの』と短篇「姦声」を取り上げ考察した第七章「結婚と性」だろう。ここで村松さんは、文さんの結婚とその破局は、父露伴とはっきり垣根を設け独自の作品世界を構築することになる重要な財産であったと指摘する。
結婚生活の失敗や、のち『流れる』に結実する身をやつした逃避生活、また〈崩れ〉のような現象への着目は、いずれもマイナスの意味合いを帯びている。しかし幸田文はこの「負の札」を自身の作品世界の柱にした。

だが、幸田文はつねにこの〈崩れ〉という負の札に、何かの価値を見つけ出し、決してこの札を手放すことをしなかった。幼ない頃からそうやって貯め込んだ負の札が、露伴亡きあとの執筆という営みによって徐々に光りをおびはじめた。「流れる」にしても「おとうと」にしても、その作品の裏にはつねに負の体験が貼りついているのだ。(226頁)
露伴から躾を教わった少女時代を回想した「みそっかす」「あとみよそわか」における父娘の格闘を、村松さんはこのように描写する。
この相手だから父は機嫌よく大上段の正論を滔々と述べ、演説口調と講釈師の口上と噺家の語り口をミックスしてシャワーのように浴びせまくる。娘もまた、父の過酷なノックのコースを見定め、首をすくめたり茫然としたり転倒したりしながらも、エネルギッシュに打たれた球を追いつづける。死の特訓と仲のよい父と娘の遊戯が混り合った、比類ない光景だ。(85頁)
家庭におけるこうした格闘を経て、幸田文という一人の人間は「渾身」という生き方をおぼえてゆく。「渾身」というのは、本書における重要なキーワードとなっている。
渾身をふりしぼって生きる少女の様が、渾身を込めた筆によって描かれている。過去の渾身とそれを綴る渾身……この二重構造が「みそっかす」「あとみよそわか」の特徴であり、また幸田文流の真髄でもあった。(「あとがき」)
「渾身」をふりしぼる姿は、別のところでは「豪球投手」にもたとえられる。この骨太の精神は、『流れる』の先に当然見えてくる東京を舞台にした「世話物、情話」といった既存のジャンルに流れ込むことを拒否しつづけ、結果として『木』『崩れ』のような作品を生み出した。
『夢の始末書』では語り尽くせなかった個人的なエピソードも織り交ぜながら綴られてゆく幸田文への旅の報告。村松さんだからこそ書ける本であり、そんな本を読めるのが嬉しいし、そこからまた自分なりの幸田文への入口が開けると思うと、ムズムズがおさまらないのである。
ところで本書の装幀は、村松本ではおなじみの菊地信義さん。竹久夢二デザインにかかるマッチ箱を描いたいせ辰の千代紙をあしらったカバーで、一目見ても菊地さんという気がしない(帯はいかにも菊地さん)。最近買った中沢新一『アースダイバー』もそういう印象を受けたが、このところの菊地さんに何か変化が起こりつつあるのだろうか。