反骨者松本清張の屋台骨

松本清張への召集令状 (文春新書 624)松本清張の担当編集者には、各社競って才色兼備の女性を送り込んだという話を何かで読んだことがある。美人を好んだという挿話はさておき、優秀な編集者ぞろいであったことは間違いないようだ。
新書新刊松本清張への召集令状*1(文春新書)の著者森史朗さんもその一人。著者略歴を見ると、文藝春秋に編集者として入社し、『別冊文藝春秋』『オール讀物』『文藝春秋』編集長を歴任したあと、取締役編集担当を経て退社されたという。
本書は編集者森さんが清張担当として携わった仕事をふりかえるなかで、なぜ清張があれほどまでに権力に対する憎悪、憤りをあらわにし、それを繰り返し小説で表現したのかというテーマが深く掘り下げられて興味深かった。
柱となる作品は、『遠い接近』という長篇で、そこに描かれた戦時召集が眼目となる。ただし清張の国家権力、あるいは漠然たる権力・権威というものに対する反骨心を実証するため、たとえば「断碑」(原題「風雪断碑」)に代表されるような、学問的権威と清張の戦いや文壇に対する反撥にも焦点が当てられ、目配りがなされている。
さて、『遠い接近』とは、両親と妻、子供3人を抱える32歳の自営色版画工の苦労人のもとに、ある日突然召集令状が舞い込むというのが物語の発端で、応召したものの3ヶ月の教育召集で除隊になると思いきや、そのまま戦地に送られることになる。
二十代の若い頑健な男ならともかく、第二乙種で三十代の、家族も抱えた男であるわが身がなぜ、と主人公が訝り、その裏にあるからくり(どこの役所で、誰が召集すべき人間を決めるのか)を突き止めて、自分を召集した真の張本人に復讐を遂げようとする。
この応召および初年兵としての軍隊生活の描写は、清張自身の体験に即している部分が多いことを森さんは明らかにし、また、この作品が書かれるきっかけとなった出来事が、森さんと清張との対話から生まれたという秘話も明かされている。
編集者との何気ない世間話、身の上話にヒントを得て、そこに自らの体験を織り込みながら強靱な復讐譚が仕上げられてゆく様子は、直接関わった方の証言だけに迫力がある。『遠い接近』を読みたくなったのは言うまでもない。文春文庫に入っていたようだが、現在品切とおぼしい。探すしかないだろう。
たとえば藤井康栄『松本清張の残像』(文春新書、旧読前読後2002/12/29条)・宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書、→2004/3/21条)など、辣腕女性編集者(しかも藤井さんと宮田さんは姉妹だ)から見た清張像の名著はあるが、男性編集者からの清張像というのは珍しいかもしれない。
本書を読むと森さんは藤井さんの後輩編集者であるようであり、清張から信頼されていた方のようだ。
本書のなかで、清張は「清張工房」と呼ばれる代作スタッフを抱えているという噂話がまことしやかに唱えられていた話が紹介されている。森さんは実体験によりそれを否定した。清張はこの無責任で悪質な流言にまじめに反論したという。
では実際はどのようにして資料が集められ、あのような厖大な作品が出来上がっていくのか。担当編集者として資料集めから取材旅行に付き合った経験と、実際書かれた作品の対応関係が、森さんが担当した坪内逍遙の評伝小説「行者神髄」を例にとって描かれている。
「清張工房」の中味は、その作品を担当する編集者であったわけだが、それゆえに担当編集者は優秀な人ばかりで、しかも筆が立ち、“清張の語り部”としてもすぐれた人たちなのであった。