雅やかな散歩

蝶々は誰からの手紙本の書評と感想の違いを端的に言えば、責任の有無ということになろうか。書評となると評者としての立ち位置を明確にしなければならないゆえ、そこに責任が生ずる。だから書評を書くときはそのたび緊張して胃が痛くなり、「もうこんな仕事二度と引き受けない」と心に誓う。
もっとも感想だからといって無責任でいい加減なことを書いていいわけではないはずだ。わたしはそのような心構えで「感想」を書いている。あくまで感想のつもりなので、ここ「読前読後」で書いたものを「書評」と呼ばれると、何かくすぐったさ、居心地の悪さをおぼえる。
こんなことを考えたのも、丸谷才一さんの新刊書評集『蝶々は誰からの手紙』*1(マガジンハウス)を読んだからだった。
エッセイ集とは違う丸谷さんの書評集は、出るたび購っているものの、本格的に通読したのは、ひょっとしたら本書がはじめてかもしれない。なぜか買ってすぐ読む気が起きた。積ん読の憂き目にあわなかった幸せな本である。
「1 書評のある人生」にまとめられている対談やエッセイは、『週刊朝日』や『毎日新聞』で携わった書評欄のポリシーについて述べられている。とりわけ丸谷さんが当初から書評欄の構成をまかされた『毎日新聞』では、書評執筆者に対し手交された執筆方針のうちのある一ヶ条、「最初の三行で読む気にさせる書評をお書き下さい。現在までの大新聞の書評は一般に、最初の三行でいやになります」が印象深い。おかげでそのあとに収められた丸谷さんご自身の書評での最初の三行にばかり注目してしまうことになった。
とくにその冒頭部分が素晴らしいのは、たとえば鹿島茂『妖人白山伯』評。

『妖人白山伯』は本当は傑作になるべき本であつた。そのことは第一章のすばらしい出来ばえを見れば納得がゆくはずだ。人物の設定がよく、趣向が斬新だ。文体も生気に富む。それが佳作にとどまつたのは残念だが、贅沢を言つてはゐられない。夜を徹して読みふけつたあげく友達に推薦して、一杯やりながら読後感を語りあふのに、これほど向いてゐる新作小説は珍しいのである。(134頁)
「本当は傑作になるべき本であつた」という思わせぶりな一節でまず目が釘付けになる。そのあと「佳作にとどまつた」とあるから、なぜそうしたことが起きたのか気になる。と言いながら、友達に推薦して読後一杯やりながら語り合うのに適した一冊という、本好きにはたまらない誘い水が向けられる。本好きなら、面白い本を読んだあと、誰かに薦めたくなり、そして語り合いたくなるのは当たり前。そこに酒があればなおよし。
冒頭三行だけでない。締めくくりの三行も劣らず大事だ。『ナボコフ短篇全集1』評の締めくくり。
この二篇に限らず名品が多い。全集であるため玉石混交の三十五篇を収めるのはやむを得ないが、さすがに名匠の作だけあつて、不出来なものでも、普段着のスッピンの美女と町角ですれ違つたやうな印象を残す。(157頁)
着飾ったうえに化粧によって凄艶な装いの美女ならば、その「普段着のスッピン」を見たい、そのほうが男心をくすぐられるのにと考えているわたしにとって、このうえない比喩である。
これは書評ではないけれど、盟友向井敏さんの追悼文も、余韻嫋々たるおもむきがある。
しかしかういふ要約ならできる。向井は言葉の力と魅惑に非常に敏感なたちだつた。言葉の機能を最もよく発揮させるために文明が作り出した容器は本なのだが、向井は読みごたへのある本に出会ふたびにそのことを他人に伝へたくてたまらない男だつたし、またその技に優れてゐた。好きこそものの上手なれ。それが彼のしあはせな生涯だつた、と。(「読書といふ快楽への誘惑者」)
珍しいことだが、先の週末、新聞書評欄で紹介されていた本をすぐにでも手に入れたくなり、二つ先の駅ビルにある大書店に急いだ。無事入手して嬉しかったのとおだやかな気候につられ、気分がほがらかになって、二駅分歩いて帰ろうという冒険心を発した。
そのためには途中荒川を渡らなければならない。こちら岸と向こう岸、それぞれ芝生の土手に腰を下ろし、河川敷のグランドで繰り広げられている草野球のプレーを漫然と眺めつつ、リュックに入れていた本書『蝶々は誰からの手紙』の一、二篇を読みつぐ。
その後も疲れてくると目に入った公園のベンチに腰かけ、少しずつ丸谷さんの書評を読んでいった。この二駅分を歩ききったのは初めてのことだが、あまり疲労を感じなかったのは、きっとこの書評本のおかげだ。
本を読む楽しみと、楽しい本を紹介される嬉しさと、本を評する文章の華やかさに頭が刺激されっぱなしで、おかげで足腰の疲労という肉体的刺激に対する感受性が麻痺させられたかのようである。こんな雅やかな散歩は近来味わっていなかった。