「読書の楽しみ」の発見

文読む姿の西東―描かれた読書と書物史最近、仕事で書誌学者川瀬一馬さんの名前に触れる機会があった。そんなことも手伝って、川瀬さんが校注・現代語訳を担当した講談社文庫版『徒然草*1をつれづれなるままに拾い読みする。
古文の教材という強迫観念から解き放たれたいま、読み返してみると、人間生活の本質をつくような、普遍的な価値をもつ面白味に満ちた随筆集であることがわかる。それゆえの「教材」なのだろうけれど。いやいや読まされると、真の面白さが見えないものである。
たとえば第22段。

文のことばなどぞ昔の反故どもはいみじき。ただいふことばも、口惜しくこそなりもてゆくなれ。古しへは「車もたげよ」「火かかげよ」とこそ言ひしを、今様の人は「もちあげよ」「かきあげよ」と言ふ。
年輩の人が若者の使う今風(今様)言葉の堕落を指弾するのと同じ口調である。こんなことを繰り返しながら時代は過ぎ、言葉も変化してゆく。
ところで、別に読んでいた、田村俊作編『文読む姿の西東―描かれた読書と書物史』*2慶應義塾大学出版会)に収められた島内裕子さんの論文「本を読む兼好―読書人の誕生」に、偶然『徒然草』に関連した興味深い指摘がなされている。
島内さんは『徒然草』を専門とする国文学者のようであり、著作には吉田兼好の評伝もある。上の論文のなかで島内さんは、吉田兼好肖像画は一貫して読書姿で描かれてきたという特長を指摘している。
いま「一貫して」と書いたが、これには歴史的な限定を付さねばならない。『徒然草』そのものが多くの人に読まれるようになったのは江戸時代以降であり、兼好読書図の出現もその時代以来のイメージであるということ。兼好=読書人という構図は江戸時代以来のものなのである。
この結びつきの由来は、『徒然草』第13段にある。ここで兼好は、「ひとり、燈のもとにて文をひろげて、見ぬ世の人を友とする、こよなうなぐさむわざなり」と、読書の愉悦を語った。
この第13段全文をさながら讃のように散らし書きにして、兼好が文机に向かい燈下で読書をする肖像画を描いたのが、江戸時代初期の公家烏丸光広だった。彼が校訂を加え、清濁や句点を加えて読みやすい形で出版した(烏丸本)ことにより、『徒然草』が流布し、幅広い人びとに読まれるようになったという。
この第13段における兼好の姿勢を、林羅山の息子で隠遁生活に憧れた林読耕斎は「読書ノ楽ミヲ知ル」と評した。読耕斎は第13段に書かれている兼好の読書生活を「読書の楽しみ」と受けとめたのである。これを受け島内さんは、次のように論じている。
それは、古人との語らいを通して、現実の自分の生活や人生から一時的にせよ自由になることでもある。読書の楽しみの発見は、兼好という一人の生身の人間を通して、「読書人」という生き方を発見したことであり、ここに「読書人」というカテゴリーが新たに誕生したことでもある。(63頁)
本を読むことが好きな人としての「読書人」は、本の誕生とともにあったわけではない。吉田兼好という隠遁者の生活宣言とも言うべき『徒然草』のなかから、後世の人間が発見したのである。“ともしびの下、一人書物を広げ、昔の人を友とすることは心が慰められる”。
そうした行為に「読書の楽しみ」を見いだしたのは後世の人間であり、兼好本人がそうした気持ちであったかはわからない。島内さんは、第13段の背後にある、語り合う友のいない孤独感を指摘することも忘れていない。現実の兼好は本当に「楽しみ」のために燈下文を広げていたのだろうか。複雑な思いが第13段には込められている。
ともあれ、かくして「読書の楽しみ」は発見された。「読書の楽しみ」ということに話題をずらせば、どういった点に「読書の楽しみ」を発見するかは人それぞれだろう。わたしの場合、今回のように、読んでいる本の内容が、同時に読んでいる本の内容や、そのときの自分の暮らしで関わった事柄とシンクロしているのがわかったとき、「読書の楽しみ」を感じ、このように報告したくなるのである。