アサガヤアタリデ…

「阿佐ヶ谷会」文学アルバム

井伏鱒二が五言絶句の漢詩「田家春望」の結句「高陽一酒徒」を「アサガヤアタリデ大ザケノンダ」と訳したのは有名な話。もっとも、上の結句だけを対応させてしまうのは、紹介の仕方として問題はあろう。
その井伏鱒二を囲むように中央線文士が「阿佐ヶ谷会」という集まりを持っていたことは、彼ら、すなわち井伏、上林暁木山捷平といったメンバーの書いた文章や、中央線文化を語る文章を読んだりして知ってはいた。
また、最近「新阿佐ヶ谷会」と称し、阿佐ヶ谷会の会場提供者で中心の一人だった青柳瑞穂のお孫さんである青柳いづみこさんや、川本三郎さん、岡崎武志さんらやはり中央線沿線に住む方々が集まりを持っていることも、上記どなたかの文章で知ったはずである。
その青柳いづみこ川本三郎のお二人の監修で出された『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』*1幻戯書房)を読んだ。
著名な文士の集まりとして、文壇史的にも有名であるにもかかわらず、本書巻末の萩原茂さんによる意を尽くした「解説」によれば、「これまでその全容が紹介されていなかった」というから不思議だ。
本書は阿佐ヶ谷会を知るうえで基礎的な資料集であると同時に、とても充実した楽しい読み物ともなっている。なにせ阿佐ヶ谷会に参加した第一級の作家たちの文章が集められているのだから。
第一部では、井伏鱒二以下の会員たちが、阿佐ヶ谷会を中心とした交遊関係を綴ったエッセイ・回想録を選んで収めてある。将棋会として始まった阿佐ヶ谷会の将棋を介しての交友や、のち飲み会主体となってからの各人の飲みっぷり、またふだんの人付き合いなどが、いろんな人の目を通して語られているから、ひとつの出来事を語っていてもそれぞれ切り口が違って面白い。
第二部は会員遺族に対するインタビュー、第三部は「新阿佐ヶ谷会」メンバーである川本さん・青柳さんをはじめ、前田速夫さん、堀江敏幸さん、大村彦次郎さんのエッセイ、岡崎武志さんによる「阿佐ヶ谷・荻窪文学散歩」と飽きさせず、第四部に前記萩原さんの解説があって、あらためて阿佐ヶ谷会を復習して、関連文献目録や開催日一覧などの資料が周到に整理されていることに驚かされる。
読んでいる途中、ふと気まぐれに本書の「あとがきにかえて 「新・阿佐ヶ谷会」縁起」(八尾久男氏執筆)に目を通していたら、本書の編集に携わったのが河上進さんであることを知った。迂闊にも買い求めたときには気づかなかった。
なるほど。「いい本だなあ」と思いながら読んでいた本が、かつて何かと懇意にしていただいた方のお仕事であることを知り、別に同業者でもないのに、妬ましくなるほどだった。編集者としての河上さん会心のお仕事ではあるまいか。ともかく素敵な本だ。
阿佐ヶ谷会では飲みながらどんな話をしていたのか。浅見淵の「阿佐ヶ谷会の解散」によれば、

ところで、酒を飲みながら何をしたかというと、悪い後味の残らぬ清談だ。例えば、井伏君の植物に対するうんちく談、青柳君の骨董発掘談など。
こういう飲み会にひどく憧れる。こうした清談が可能なのは、ふだんからべったりとした付き合いをしていないゆえだろう。青柳瑞穂の「外村君の横町」には、青柳瑞穂と外村繁はお互い徒歩で五分足らずの近所に住んでいたのに、日常的な往来は滅多になく、阿佐ヶ谷会で顔を合わせたときに雑談する程度だとある。人付き合いとはかくあるべきだ。
それに関連して、大村彦次郎さんの「阿佐ヶ谷会と文士村」には、実に示唆深い指摘がなされている。
井伏鱒二という魅力ある作家に惹かれ、中央線界隈に文士が住むようになった。「みんな先行き不安だから、群を作った」のである。でもそのように相互に影響を与えあうあり方に懐疑的な人もいっぽうではいて、あえて離れたところに居を構えた。伊藤整がそうだった。
伊藤は井伏をはじめとする文士相互の影響力を怖れた。弱いエゴは強いエゴにいつの間にか吸引された。発想や文体までが似た。それは井伏からばかりではなかった。おたがい仲間同士のエゴの潰し合いが目に見えるようだった。
和気藹々とした親睦会に見える阿佐ヶ谷会を大村さん一流の「文壇史」「文士集団史」に位置づければ、「エゴの潰し合い」という壮烈な見方もできる。この大村さんの文章は、短いながらもその著書に通じるエネルギーが流れていて、読み応えがある。本書第一部に収められた文章群は、いわば潰されたエゴが怨念のように背後に隠されている。
ラピュタ阿佐ヶ谷に映画を観に行くようになって、阿佐ヶ谷は自分にとってなじみ深い町になっている。青柳邸など探索したことはないけれど、時間つぶしのためあのあたりをぶらぶら歩いたことはあって、たしかに古い家が建ち並んだ落ち着いた界隈であることを思い出す。
今度時間があるとき、ゆっくり自分の知らない阿佐ヶ谷を歩いてみたい。最後に付け加えれば、本書を読んでもっとも惹かれた会員は、上林暁だった。自分の悪い癖、彼の全集を手元に置きたくなってしまった。くわばらくわばら。