心を無駄に使わない

映画×温泉 湯けむり日本映画紀行

「風流温泉 番頭日記」(1962年、宝塚映画・東宝
監督青柳信雄/原作井伏鱒二/脚本長瀬喜伴小林桂樹司葉子池内淳子志村喬三木のり平加藤治子/塩沢トキ/沢村いき雄/森川信藤木悠/万代峯子/柳川慶子/高島忠夫江原達怡

渡辺武信さんは、石原裕次郎のサラリーマン映画を批判する文脈のなかで、東宝映画の小林桂樹が演じる役柄と変わらないという点をあげている。しかしながら、うまく説明はできないけれど、やはり日活アクション映画のスターである裕次郎が演じるサラリーマンと、東宝サラリーマン映画を代表する小林桂樹では、多少毛色は異なってこよう。
むろん共通点もある。それは、当時のサラリーマンが裕次郎小林桂樹に自分の果たせぬ夢のようなものを仮託したのだろうという点においてだ。一見平凡なサラリーマンを演じた印象のある小林さんの役柄は、“理想的な「平凡なサラリーマン」”だったと言えよう。
その意味で、この「風流温泉 番頭日記」は、小林桂樹サラリーマン映画の変種と見ることも可能だ。根っからの釣り好きで、存分にヤマメやアユなどの渓流釣りが楽しめる温泉場の宿屋の番頭として渡り歩いているのが主人公喜十さん(小林桂樹)。
いま勤めている甲州の山あいにある宿屋では三番番頭で、人づかいが荒い雇い主からこき使われている。口やかましい女中頭(万代峯子)から強い調子で「ズブ」と罵られても、相手を好きな魚だと思うことで、小言を「右から左へ受け流し」ている。それにこの宿には、働き者で自分の釣好きを理解してくれる綺麗な女中司葉子もいる。
泊まり客の小説家志村喬(井能先生という役名は原作そのままで、原作者井伏鱒二がモデルなのだろう)から釣りに誘われ、案内者という名目で自分も川釣りを愉しむ。でも帰ってくると女中頭の小言が浴びせかけられる。
ある日好意を抱いていた司葉子が、母親の看病のため女中を辞めるという話を聞き、自分も番頭を辞してしまう。
次に行き着いたのが、アユ釣りを愉しめる伊豆の温泉場。勤めた宿では、女将さん(加藤治子)に信頼され、全権を任されるような番頭の立場にいる。そこでは「内田さん」と苗字で呼ばれる。甲州の喜十さんはズブで怠け者だが、伊豆の内田さんは有能な働き者。同じ人間で何も違ったことをやっていないのに、場所や接する人によって扱いが大きく違う。そんな表裏が面白い。
ここで内田さんは、女将さんの妹で、温泉場のバーでマダムをしている池内淳子に惚れられる。池内は結婚したいと積極的だ。余計なことに口を挟まず、「心を無駄に使わない」のがいいのだ、と好きな理由をここにも釣りのため訪れた井能先生に打ち明ける。誠実で気のいい人間、そして「心を無駄に使わない」ことが女性を惹きつける。「心を無駄に使わない」とはいい言葉だ。誠実に暮らすことで美女が自分に惚れてくれる、そんな小林桂樹に男は理想を見いだすのである。
でも内田さんは、美女池内からの熱心なプロポーズに耳を貸さない。井能先生から、甲州の宿に司葉子が戻ってきたことを知らされると、「またあそこでヤマメ釣りをするのもいいかな」と、せっかく待遇がいい伊豆の宿を辞し、またもや甲州の温泉宿に戻って三番番頭としてズブと罵られながら働き出すのである。
結局小林桂樹は、池内淳子より司葉子を選んだということになる。池内淳子のおだやかな雰囲気はいまで言えば松たか子司葉子の清新さは宮崎あおいのようなイメージか。
カラーフィルムは褪色してしまって、赤茶けたセピア色の映画を観たといった感じなのだが、とても心おだやかになるいい映画で、色合いなどはどうでもよくなった。ただ客観的に見れば平凡だから、滅多に上映される機会はないだろう。この機会に観ることができてよかった。
先日お亡くなりになった塩沢トキさんも、銀座のホステス役で出演。いままで彼女が塩沢登代路の名前で出演した映画では、あまり目立たぬ脇役ながらその美貌にうっとりさせられたが、この映画では、美しさそのままに、派手な役どころは、わたしの知っている晩年のいかにも塩沢トキさんというキャラクターが出ていて微笑ましかった。
原作は前述のとおり井伏鱒二。「掛け持ち」という作品だというから、帰宅後ちくま文庫で出たアンソロジーの釣の巻(『井伏鱒二文集3 釣の楽しみ』*1)に収められていないかさっそく探してみたところ、思ったとおり収録されていたので嬉しかった。
井伏鱒二文集 3 (ちくま文庫)風呂上がりビールを片手に「掛け持ち」を読み、映画をふりかえるという至福の時間。「掛け持ち」は30頁に満たない短篇で、映画の筋とけっこう違う。題名は、主人公の喜十さんが、繁忙・閑散の具合によって甲州の番頭と伊豆の番頭を文字どおり「掛け持ち」して過ごしていることに由来する。そうした生活を10年も続けているというから、釣りしたさの気まぐれで勤め先を転々とする映画の喜十さんとは違うのである。
ただ甲州ではズブで、伊豆では有能という裏表のある人物像はそのままで、小説にある挿話もたくみに映画に取り入れられている。
とはいえそれぞれの温泉場で喜十さんに惚れる女性が登場するではなし、全体として見れば、ほとんど翻案とも言えるほど小説と映画は異なるものだった。原作にある喜十さんを小林桂樹にあてて、女性に惚れられる気のいい釣り好きとして造形し直した脚本が功を奏したと言うべきか。「心を無駄に使わない」という台詞も、小説にはなかった。
ここで気になったのは、先日観た同じ井伏鱒二原作の清水宏作品「簪」のこと。脚本は同じ長瀬喜伴である。そこでの名言「情緒が足に突き刺さる」もひょっとしたら原作にはないのかもと、図書館で調べてみた。
「簪」の原作は短篇「四つの湯槽」で、筑摩書房版『井伏鱒二全集』第7巻に収録されている。ざっと見るかぎり、「掛け持ち」にくらべ映画は原作とそうかけ離れていないようである。そして前述の台詞はきちんと原作に書かれてあった。こちらは井伏さんによるわけである。