工手学校への好奇心

工手学校

茅原健さん『工手学校―旧幕臣たちの技術者教育』*1中公新書ラクレ)を読み終えた。
工手学校は明治20年(1887)、中堅工業技術者養成のため設立された私立学校で、現在の工学院大学の前身である。
工手学校に対する関心が芽生えたのは、初田亨さんの『職人たちの西洋建築』*2ちくま学芸文庫)を読んで以来だと思う(旧読前読後2002/11/14条)。さらに工手学校出身者である竹田米吉さんの『職人』*3(中公文庫、→2004/1/18条)を読んで関心の度合いが高まった。
明治の世が到来して西洋建築が日本に入ってくるが、その流れのなかで、現在の東大工学部の前身である工部大学校は、辰野金吾に代表されるエリート建築家を育てる目的の教育機関として設けられる。
ただ実際建築にあたるのは現場の職人たちであり、彼らは別に西洋建築を正面から学んだわけではないのである。そんなエリート建築家と現場職人の間に立ち、専門的教育を受けた技術者として現場を指揮する階層を養成するために設けられたのが工手学校というわけである。
いま話を建築に限定したが、こうしたことは建築に限らず、電気や土木、造船や鉱業などの分野でも同じだったろう。エリート―中堅技術者―現場職人という階層性が学校教育面でも反映されており、それが関心を惹いたのである。
実際工手学校設立時からこうした階層性が意識されていたらしい。工手を英語にするとforemanで、別の日本語に置き換えれば「職長」「班長」といった意味になるという。初代校長中村貞吉は、学校を「工業上の尉官曹長軍曹等を養成する所なり」と規定している。裸の大将ではないけれど、こうした階層性を軍隊の階級にたとえて理解しようとする心性が面白い。
ちなみに初代校長中村貞吉は、創立時29歳(!)の気鋭で、工部大学校を卒業した化学者であり、福沢諭吉の長女の婿だという。校長中村にとどまらず、教授陣は辰野金吾はじめ工部大学校を出た「工学士」が名前を連ねている。
ところでかつて『職人たちの西洋建築』を読んだとき、上記のような目的で設立された学校が私立学校であることに疑問を呈した。本書を読むと、工手学校は、民間企業人が「賛助員」という立場で資金をはじめとした援助を行なうことによって作られたとある。
賛助員に名前を連ねているのは、清水満之助(清水建設三代目社長)、古河市兵衛古河財閥総帥)、岩崎弥之助三菱財閥総帥)、鹿嶋岩蔵(鹿嶋建設創業者)、大倉喜八郎大倉財閥総帥)、安田善次郎安田財閥総帥)、浅野総一郎浅野セメント創業者)、渋沢栄一住友吉左衛門(住友家当主)など錚々たる面々である。私立とはいえ、この面々を見ても、国家的プロジェクトとして要請された学校であったことがわかる。
彼ら民間企業人が協力して明治の技術立国を支える中堅技術者を育てるための機関として設立されたのが、工手学校なのだった。茅原さんはこれに加え、副題にあるように、旧幕臣のネットワーク、彼らの技術立国に向けた熱意を見いだしている。
大鳥圭介榎本武揚、初代管理長(理事長)渡邊洪基、それら田口卯吉や渋沢栄一ら旧幕臣が工手学校設立に力あったことはわかったが、ではなぜ彼ら旧幕臣が技術立国を目指したのかという動機面での説明が多少足りなかったのではないかと思う。わたしはそこが知りたい。
ともあれ、『職人たちの西洋建築』以来の工手学校に対する知的好奇心は、本書を読むことで満たされた。本書最後の「補章」は「はみだし人物列伝」というタイトルで、「え、こんな人も工手学校出身者なの?」と驚くような人びとが簡単に紹介されている。それによれば、谷崎精二森銑三、映画監督の成瀬巳喜男らも工手学校に学んだという(ただし森・成瀬両人は中退)。