校訂表好き宣言

徴用中のこと

エッセイ集などの初出一覧が充実していると、何となく嬉しい。これ“初出一覧派”なり(→2004/6/11条)。これに加え、テキストが綿密な校訂を経てわたしたち読者に提供されていることを保証する校訂表が詳しければ詳しいほど、また嬉しからずや。これ“校訂表派”ならんか。
綿密な校訂がほどこされているといえば、ただちに岩波書店の『漱石全集』をあげる。また松山俊太郎さんが小栗虫太郎澁澤龍彦作品に対して行なった仕事、近時の光文社文庫版『江戸川乱歩全集』における新保博久さん・山前譲さんらの仕事を思い浮かべる。『江戸川乱歩全集』など、つい最初に校訂表に目を通してしまう。巻末校訂表の分量が多いほどゾクゾクと嬉しい。
もっとも、語注ならまだしも、いちいち校訂表を見くらべ、「ふむ、ここは○○本だとこういう表現になっているのか」などとしたり顔をしながら読み進むわけではない。そんなことをやっていたら内容理解に重大な差し障りが出てくる。あるだけでいいのだ。というわけで、初出一覧好きにせよ、校訂表好きにせよ、その本を読むうえでは何の関係もないことだから、あまり上等な趣味とは言われないだろう。
井伏鱒二さんの文庫新刊『徴用中のこと』*1(中公文庫)は、上のような意味で“校訂表派”たるわたしを満足させる興奮の書であった。森本昭三郎氏による校訂表が細かい字の二段組みで20頁にわたっている。これを喜ばずにいられるだろうか。
井伏鱒二さんは、評価が定まっているような自分の旧作にも容赦なく斧鉞をふるった作家だと聞く。それがこの『徴用中のこと』にもあらわれているのだろう。1977年から80年にかけ『海』に連載されたのち、86年の『井伏鱒二自選全集』が初刊にあたる。そのさい文章に大きく手が加えられただけでなく、約三分の一にあたる分量が収録されなかった。本文庫版は初出に拠って全体が再現されているから、全集版と様相を大きく異にする。
井伏さんは太平洋戦争開戦直前に陸軍から徴用を受け、マレー・シンガポール方面に赴き、山下奉文将軍率いる第25軍によるシンガポール攻略を目の当たりにした。シンガポールが陥落し、昭南市と名前が改められたあと、同地で「昭南タイムス社」という地元英字新聞の編集にあたるなど、宣伝班員として従軍生活を経験する。
中公文庫の他の戦争物と同じく、本書もまた貴重な戦争文学として喧伝され、そのように受容されていくのに違いない。天の邪鬼のわたしとしては、当然そこから少し姿勢を斜めにして本書を楽しんだ。瑣事、挿話の宝庫として面白いのである。
井伏さんと一緒に宣伝班員として南方に赴いた作家として、前述した小栗虫太郎海音寺潮五郎がおり、二人の名前が本書にときどき登場する。南方に向かう輸送船には、反戦思想を抱く徴員の言動をチェックするべく、スパイを忍び込ませていた。結果密告書として指揮官に提出されていたという。小栗虫太郎はこの密告のいきさつを「諷刺の効いたユーモラスな童話」として船中新聞に書き、指揮官を激怒させた。
海音寺潮五郎が酔って小便をしようとして、船からサイゴン川に転落し、すんでのところで救助されたときの話。直前軍人側と徴員側との間でいざこざがあったため、事を大きくしたくない海音寺は、救助しようとまわりで騒ぐ人びとにむかい「ものども騒ぐな」と叫んだというまことしやかなゴシップは、時代小説の大家らしい挿話だ。
マレーのクルーアンという村で、食用のため野性の豚をつかまえようとしたときの話。通訳班に属していた古山力という人物が軍刀で豚に斬りつけた。

その現場を見てゐた人の話では、ぽこんといふ音がして軍刀が跳反り、豚の尻は何のこともなかつたさうだ。豚の尻の皮は厚くて固いのだらう。おかげで古山君の軍刀は曲つて鞘に入らなくなつた。それを無理やり入れたので抜けなくなつてしまつた。(25頁)
そのほか、現地でタイ人に間違えられ憮然としたり、シンガポールの場末の川の臭気から新橋の小料理屋の窓で嗅いだ三十間堀の臭いを思い出してピータンを連想し、ピータンの匂は、馴れれば気持の悪いものではない」とひとりごちる。
さらに興味深いのは、シンガポールの映画館で、自作(「おこまさん」)を原作とした成瀬巳喜男監督の映画「秀子の車掌さん」を偶然にも初めて観る機会を得た話。この映画が山梨で撮影されている最中、たまたまロケ隊に行き会ったりした思い出を交えながら、「この映画は兵隊の慰問用として適当かどうか怪しいやうだ」と気を揉んだりする。成瀬監督はバスを侘びしく見せるようと赤土の入った錆色のペンキでわざと塗り直したため、マレーの人が、日本人はこんな汚いバスに乗っているのかと誤解してしまうおそれがあり、国辱だと軍人からクレームが出て、結局上映禁止になってしまったという。
徴用のときの悪夢のような思い出をふりかえり、批判を込めつつ淡々と傍観者的なまなざしで筆を進めながら、ときおり混じるこのようなユーモアが、『徴用中のこと』をいっぷう変わった戦争文学にしているような気がする。