第76 「閑々亭」で酒気を抜け!

東京府美術館の時代展図録

ひさしぶりの二日酔い

東北の産ゆえか、黙々と呑むからか、よく人からは酒がいける口だと見られる。しかし自分では必ずしもそう思っていない。もちろん下戸ではないが、酒量は多くない。外で呑むと、自然にリミッターが作動するのか、二日酔いが前倒しできたかのように、一定の量を飲むと頭が痛くなる。だから記憶がなくなるまで呑んだという経験がない。
このリミッターはときどき誤作動を起こすらしい。前夜はたまたまそのときにあたっていたと思われる。西秋書店の西秋さん、ちわみさん、ふじたさん(id:foujita)という気のおけない書友と「Nの会」(仮称)と称しときどき飲み会を開いている。今回はこのメンバーに『脇役本』のハマダさんを加え、計5人で呑みかつ食べ、楽しく騒いだ。
皆さんかなり酔っていたとお見受けする。わたしもリミッターが外れ、度を超してしまっていた。角田光代さんと川上弘美さんいずれがいいかなどという些末事に気色ばんで西秋さんに議論をふっかけるなど、反省すべき点が多々ある。ハマダさんからは、「脇役としての森雅之」論や、テレビ版『白い巨塔』に中北千枝子さんも出演していた話をうかがった。酔っ払いながら、飲み屋の店頭で森雅之中北千枝子について語り合う景色、思い出してもおかしい。
案の定翌朝(つまり今朝)ひどく頭が痛かった。幸い、ひどい二日酔いというところまでいかなかったけれど、吐き気がして体がふらふらする。これも生きている証しだなどと勝手な理屈をつけ二日酔いを甘んじて受け入れ、結局昼まで起きあがることができなかった。
こういうときはバリバリと歩いて汗を流すのがよろしい。まだ芯に頭痛の種を残した感じの重い頭を抱え、町に出た。めざすは木場の東京都現代美術館である。

ついに「閑々亭肖像」にまみえる

現代美術館では、先週から企画展「イサム・ノグチ展」が始まったばかり。これを目当てに訪れる人が多かった。ところがわたしの目的は違う。目当ては、同じく先週から始まった常設展示(MOTコレクション)の「1920年代の東京」と、今日から始まった企画展「開館10周年記念 東京府美術館の時代 1926-1970展」である。
せっかく来たのだから、イサム・ノグチ展も観ればよかったのだが、常設展と企画展2本は体力的につらい。全部観ることができるセット券が1900円とお得ではあったが、「東京府美術館の時代」展と常設展を観ることができる券(1000円)でちょっと節約する。
大正15年(1926)、上野の山に東京府美術館が開館した。恒常的な美術展覧会場としての機能をもつ日本で初めての美術館だったという。それまでは博物館しかなかったわけだ。設計者は歌舞伎座明治生命館で知られる岡田信一郎。建物は1977年に取り壊されたが、写真や設計図、模型を見ると、ずいぶん豪華な美術館だったものよとため息が出る。
今回の企画展は、東京府美術館で催された大規模な展覧会四つを部分的に復元する(そのさい展示された作品を再展示する)という面白い試みで、作品を観る愉しさに加え、東京府美術館という施設の歴史と、そこで開催された展覧会の歴史を知ることができるユニークな展覧会だった。
展示室の最初の部屋には、府美術館の貴賓室に置かれていた卓子・肘掛椅子・花台・帽子台などの調度品(わが国におけるインテリアデザイナーの先駆者梶田惠の作品)が配置され、さらに、いきなり長谷川利行の「府美術館」という油絵があって、目を奪われる。長谷川利行好きなわたしとしては、もうこれで興奮ものだった。
再現された展覧会は四つ。開館第一回目の展覧会「第一回聖徳太子奉賛美術展」(1926年)、「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」(1940年)、「日本アンデパンダン展(読売アンデパンダン展)」(1949-63年)、「第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)」(1970年)である。
最初のふたつの展覧会は戦前に開催されたものであり、展示部屋の雰囲気はおよそ現代美術館空間に似つかわしくない。異空間にまぎれ込んだような、でも個人的にはこういう雰囲気のほうが好きだという穏やかな空間だった。
閑々亭肖像聖徳太子奉賛美術展」展示品のなかでもっとも注目していたのは、今回の現代美術館行きでもっとも楽しみにしていた一品、重松鶴之助の「閑々亭肖像」だ。青々とした髭の剃り跡も生々しい、角刈り風の細面できっと前方を睨んだ、近寄れば斬るといった風情の鋭さを発散しているこの肖像画を知ったのは、洲之内徹さんの文章だった。

洲之内徹にとっての「閑々亭肖像」

洲之内さんはこの作品について、『絵のなかの散歩』*1新潮文庫)・『気まぐれ美術館』*2(同前)で触れている。前者所収の「古賀春江「ミルク」」のなかで、大久保百人町の下宿の話が出たついでにという流れで、そこで出逢った重松鶴之助の姿や、目の当たりにした「閑々亭肖像」を追想している。
洲之内さんはのちに映画監督となる山本薩夫と同郷で、その縁で山本薩夫の兄山本勝巳氏の百人町の下宿に身を寄せたことがあるという。山本勝巳氏は俳優山本學・圭・亘兄弟の父親にあたる。下宿で時々見かけた「毬栗坊主のちんちくりんの妙な男」がやはり同郷松山出身の重松で、勝巳氏が重松から預かった作品のうちの一点が、写楽の大首を思わせるような、盲縞の着物を着た男の横向きの顔」だった。すなわち「閑々亭肖像」である。
洲之内さんはこの絵が好きだった。

よく薩ちゃんの部屋へ入りこんでは、こっそり押し入れからその絵をとり出して眺めた。なんとも言えずいい絵で、欲しくてたまらなかったが、とてもそんな大それたことは言い出せるものではなかった。(『絵のなかの散歩』199頁)
「いまもその絵のことは忘れない」と書き、その後『気まぐれ美術館』所収「ある青春伝説」のなかでは、この絵と45年ぶりに再会したことが書かれている。洲之内さんが「もう二度と見ることはあるまいと思っていたこの絵を四十五年ぶりに見て、流石に感慨無量であった」と書いたその絵が目の前にある。いまの日本にはこんな鋭い顔の人間はいないと思わせる精悍な顔つきの男の肖像を前に、しばし動くことができなかった。離れては近づき、別の絵を観てからまた歩を戻して眺め入る。
図録にもキャプションにも本作品の所蔵先が書かれていない。『気まぐれ美術館』には、山本勝巳氏がずっと所蔵していたとある。図録の謝辞に連ねられている協力者リストを見ると山本圭さんの名前があった。たぶんそのまま受け継がれ、現蔵者なのだろう。
「第一回聖徳太子奉賛美術展」はこの「閑々亭肖像」に尽きる。「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」は、荻須高徳「モンマルトル裏」と松本竣介「街にて」が並んでいる壁面がいい。松本竣介の青の鮮やかさ深さ。絵には「2600.9」という制作年月が書いてある。
読売アンデパンダン展」は、この名前を聞いて思い浮かべる赤瀬川原平さんの梱包作品と千円札がやはりあった。それに、盟友中西夏之さんの「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」もある。岡本太郎のタイル作品「太陽の神話」もいい。
図録(2000円)は、展示作品を再確認するための「見る図録」として使えるだけでなく、東京府美術館やそこで展開された各展覧会の歴史的意義を論じた論考も収められた「読む図録」でもあり、一読に値する。何といっても表紙に長谷川利行「府美術館」が按配されているのが嬉しい。

「稲妻」の舞台へ

現代美術館を出たわたしが向かう次の目的地は、洲崎弁天のあるあたり。南北に長い木場公園を縦断し、さらに南に歩くと、下に地下鉄東西線が通る永代通りにぶつかり、そのすぐ南に並行して大横川が流れている。ここに「新田橋」という歩行者専用の橋が架かっている。この橋は成瀬巳喜男監督「稲妻」に登場するのである。
新田橋高峰秀子と三浦光子の姉妹が、急逝した三浦の亡夫のあと始末のため、彼の愛人だった中北千枝子に会いに行く。中北が二階を間借りする家がこの大横川沿いにあり、二人は新田橋を渡る。高峰・三浦二人が渡る橋が新田橋であることを教えてくれたのは、冨田均さんの『東京映画名所図鑑』*3平凡社)だった。同書を読んだとき、新田橋来訪を誓った(→4/19条)。それがようやく今日実現したことになる。新田橋を渡った向こう側には、船宿があり、また中北さんが住んでいそうなささら子下見の木造二階建て家屋がある。
昨日、衛星劇場で放映された「稲妻」を録画した。いままで「稲妻」をスクリーンで二度観ているが、いまのところ成瀬映画ナンバーワンに推したい映画である。中北さんが亡くなられたということと合わせ、印象深い訪問となった。中北さんを悼みつつ三度目を観て、新田橋の風景の移り変わりを楽しむことにしたい。
ただ残念だったのは、高峰・三浦両人が渡った新田橋はすでに当地にないこと。新しく架けかえられてしまったのだ*4。橋のたもとにある説明板によれば、元の橋は区内の別の公園に移築されているとのこと。そこにも足を伸ばしたかったけれども、体力がもたなかった。旧新田橋訪問は、またしても次の宿題となった。
さんざん歩いて汗を流したおかげで、そして頭痛を忘れさせるような作品を見たおかげで、現代美術館を出る頃にはすっかり酒気が抜けていた。そこからさらに歩いて汗を流し、くたくたになって帰宅した。さて、歩いたあとのビールはうまいぞ。人間は愚行を繰り返す生き物なのである。

*1:ISBN:4101407223

*2:ISBN:4101407215

*3:ISBN:4582828574

*4:冨田さんの本が刊行された時点(1992年)ではまだ古い橋が現役だった。