死んでからわかること

椿山課長の七日間

外出先から帰宅のメールを出したら、折り返し最寄駅前のスーパーで待ち合わせして買い物しようという返事が来た。家族と合流するまで、スーパーのなかにある新刊書店で時間をつぶしていたとき、手持ち無沙汰なのでそれまでまったく意識すらしなかった新刊文庫を何気なく手に取ったら、何やらとてつもなく面白そうな予感がして、思わず買ってしまった。浅田次郎さんの椿山課長の七日間*1朝日文庫)である。
浅田次郎さんの作品は読んだことがない。『天切り松』が中村勘九郎(現勘三郎)でドラマ化されたとき観て、面白いと思ったのだが、原作を読むまでには至らなかった。カバー裏の紹介文を見ると、朝日新聞夕刊連載中から大反響を呼んだ感動巨編」とある。朝日の購読者なので、この作品が夕刊に連載されていたときも目に触れているはずだし、単行本になったときも話題になったに違いないのだけれど、まったく記憶にないのは迂闊というほかない。
もっとも、先ごろから朝日夕刊で連載が始まった北村薫さん初の新聞連載小説「ひとがた流し」も、最初の2回ほど読んで、「単行本になってからでいいや」と読むのを放棄した。どうやら新聞連載小説を読むことは性に合わないらしい*2
それはともかく、この『椿山課長の七日間』、めっぽう面白かった。小説を読む愉しさを存分に味わわせてくれる長篇。北上次郎さんによる解説は、「いやはや、面白い。読み始めたらやめられない面白さだ」という一言から始まっている。これに付け加える言葉はない。確実に「今年読んだ本のなかで面白かったベスト10」に入ることになるだろう。
老舗百貨店の婦人服売場課長の任にある椿山和昭は、サマーバーゲンの初日、多忙つづきだったため、働き盛りの46歳で過労死してしまう。中古の住宅を買ったばかりで多額のローンが残され、家族も気になる。バーゲンの売り上げも確かめておきたかった。
死んだ者が天国か地獄に送られる前にいったん集まり、生前の行状の判定を受けるのが冥土と呼ばれる中陰の世界。ここには、「中陰役所」が置かれ、死者が厳正な審査を受けて天国もしくは地獄に送られる。現世にやり残したことがあり、それが審査官に「相応の事情」と認められれば、特別に七日間に限って現世に戻ることができる。
中陰役所は最近「よりグローバルな視野に立って」、「スピリッツ・アライバル・センター」通称「SAC」と名前を変えている。現世に「逆送」を許された者は、役所の別館にある「リライフ・メイキング・ルーム」(RMR)に行き、そこから現世に送られる。RMRはあくまで特別の場所であるため、ふつうの死者の目には入らない、役所の奥深く、入り組んだところにある。

何となく税金還付と似ている。源泉徴収された所得税から、それぞれの生活事情に応じた還付金を取り戻すのは納税者の正当な権利なのだが、わかりづらいうえに面倒くさいから誰もやろうとしない。むろん税務署が積極的に還付の奨励などするはずはない。つまり正しくは、納税者の権利ではなく、マメな納税者の権利なのである。すなわち「特別逆送措置」というシステムは、マメな死者の権利なのだった。(81頁)
あろうことか椿山には、身におぼえのない「邪淫の罪」があるという。同罪の者ばかりが集められたSACの講習室では、自分がモデルケースとされた講習ビデオを見せられ、それから「反省ボタン」を押せば極楽に行ける。ところが椿山は納得できない。
こんな「中陰役所」における役人との間の受け答えにいちいちギャグが散りばめられていて笑える。「中陰役所」の典型的役所ぶりにも爆笑。そのほかにも紹介したいギャグは山ほどあるのだが、きりがないのでこれ以上触れない。
無事逆送が許され現世に戻ってみれば、現世での立場がばれないよう、現世とは正反対の人間の体を使って行動を許されるということで、戻った姿が妙齢の美女になっていて驚く。うっとりと鏡に映るわが身体を眺めまわし、裸になって触りまくるスケベ中年オヤジ。それで貴重な時間を空費してしまう。しかもRMRで一緒だったヤクザの親分は、ダンディな大学教授(しかも専攻が日本史で戦国武将というからまた笑える)となって現世に戻ったというおかしさ。
このあたりまで一気に読ませる面白さで、電車で読んでいたわたしは、笑いをかみ殺しながら読んでいた。きっとニヤニヤしながら本を読んでいる自分の姿を見た人は、気持ち悪がったに違いない。
この作品はただ笑わせるだけでない。死んだ者の気持ち、死者に残された側の人間の気持ち、死んではじめてわかる家族の事情、死んだことにより逆に強まる家族の絆の問題を深くえぐる。笑いをこらえていたのが、一転今度は涙をこらえる場面に転換する。笑いと涙、ふたつの劇的な気持ちの高ぶりが交互に押し寄せ、いつのまにか物語はクライマックスにさしかかっている。矛盾だが、人間は死んでからでないと自分の人生が何であったかわからないし、家族や知人が自分をどう見ていたかもわからないものなのだな。
ふたたび北上さんの解説を借りると、「圧巻のラストまで、笑って泣いて読んで」しまうような「何度も目頭が熱くなる。いい小説」であることは間違いない。まったく新しいタイプの「生まれ変わり小説」である。
帯によれば、来春テレビドラマ化が決定したという。ハゲ・デブの典型的中年男椿山役は誰で、現世に逆送された美女(内側は椿山)は誰、ヤクザの親分役は誰が演じるのか、そして物語のキーパーソンとなる椿山の老父役は? いまから楽しみで仕方ない。

*1:ISBN:4022643528

*2:唯一新聞連載小説を毎日マメに読んでいたのは、筒井康隆さんの『朝のガスパール』だけだ。