自己規定あるいは弁明の書

この世には二種類の人間がいる

中野翠さんの新著『この世には二種類の人間がいる』*1文藝春秋)を読み終えた。中野さんらしい鋭い人間観察と批評に満ちた、楽しい本だった。
本書の目次には、「それは○○○な人と△△△な人だ」というタイトルがずらり50並んでいる。世の中の人間を「○○○な人」と「△△△な人」二種類に分類して、人間の生態や世間の様相をバッサリ斬る、着眼が素晴らしく独創的な本である。
と書くと、いかにも客観的人間分析の書という印象であるが、たしかにそこに通じないわけではないものの、つきつめれば自己規定の本と言うべきだろう。つまり「自分はこういう人間だが、これとは真逆な人間もいる」という卑近なところから出発しているのである。
中野翠という一人の著述家の姿を真四角な氷柱(でなくても、一本の丸太でもいいのだが)にたとえれば、本書を読み進めることで少しずつそれを削り込み、最終的に50読めばかなり具体的に中野翠さんという人物の氷像ができあがるという仕掛け。むろんだからといってこの50だけで一人の人間が描き尽くせるものではないから、本書の規定だけで自分を理解してほしくはないだろう。
自己規定だけでなく、弁明の書であるとも言える。たとえば「それはこなれた人とこなれない人だ」の一章で述べられている挿話。以前自分が悪口を書いた人物と、あるパーティで同じテーブルになってしまい、かなり気まずい思いになっていたところ、その人物から突然話しかけられ、どきまぎして気のきいた会話ができなかったという反省の弁。
冒頭で中野さんは、この自分の対応に嫌悪感をおぼえ、長く思い煩っていたが、「私自身のサイコセラピーのために」あえて書くとしている。自分の至らなさを犠牲した、身を切っての一文だが、いっぽうではこれを書くことで精神的な解放を企図し、また「実はこのときの私はこんな状態だったのです」という弁明をしていることにもなる。
たとえば「それは「おめもじ」と書ける人と書けない人だ」で弁明されるように、友人知人からの音信に返事を書く(文章は浮かぶのだが、紙に書き写すのが面倒)のがおっくうで、ついそのままになってしまうというのもそう。「実は…」と、本書を通して自分の性格をさらけだし、過去の非礼を詫びている。
もちろんこういう内容が悪いと言っているわけではない。そうやって「サイコセラピー」と称し自分の暗部(?)をさらけ出す中野さんの姿勢が、むしろ爽快である。
これまでも書いているが、わたしは中野さんの考えに共感する部分が多い。しかもエッセイの随所で披露される中野さんの性分に共通することもしばしばである。本書では自分を基軸に二分法を展開している項目が50もあるので、「これは一致する」「これは反対の側だ」というものに分かれるものが多かった。まあ当たり前だろう。大半が一致していたらむしろ怖い。
このなかで一番深く共感したのが、「それは、あのかたをヤワラちゃんと呼べる人と呼べない人だ」の一文だった。「あのかた」とは当然谷亮子である。中野さんは呼べない派。しかも、「特別な技能を持った有名人」に対して気安くあだ名で呼ぶことを嫌悪する。「ゴジラ」「大魔神」、「ブラピ」「シュワちゃん」「ヨン様」などなど。
わたしも絶対そういう呼び方はできない。中野さんは、「「距離」のなさ」がベタついて厭だとし、あだ名・愛称で呼ぶことで「引き寄せて、距離を縮める」やり方が好かないらしい。
ここで中野さんは、有名人に対するあだ名に触れているだけであるが、子供時代はまだしも、最近のわたしはあだ名全般に対してこういう感覚になる。ある集団だけで呼び合っているあだ名でその人を呼べないし、そもそもそうしたあだ名で呼び合う集団に入ってゆけない。ベタついた「距離」のない人間関係がすっかり厭になっている。組織に所属することがふさわしくない人間なのかもしれない。
ところで谷亮子は、先日の全日本体重別選手権で「ママでも金」を目指し復帰戦に挑み、決勝で敗れた。でも世界選手権代表の座は獲得した。このあたりに言いようのない嫌らしさを感じる人が多いのではあるまいか。実はわが家庭でもこのときの彼女をめぐって激論が闘わされた。
そもそもわたしは、「谷亮子を許す」人間である。これに対し妻は「谷亮子を嫌う」人間だ(当たり前だが、どちらも「ヤワラちゃん」とは口にしない)。妻は、夫である巨人谷選手とのイチャイチャや、子育てしながら柔道を続けていることを強調しすぎるとして、「こんなこと世間の多くの女性と同じじゃないの」とかなり不満を持っている。
たしかにわたしもそういう面をテレビで見ると引いてしまう。マスコミ側が聞くからなのだが、テレビで「試合の間に授乳した」など言わないほうがいいのではないか。
けれども、夫婦のイチャイチャも、母親であることの強調も、あの試合での気迫あふれる表情とスピードのある身のこなしを見ていると吹き飛ぶ。谷選手の試合に臨むときの表情が好きだ。有言実行は今回は駄目だったが、世界選手権ではやってくれるのではないか。そんな期待を抱かせる。
要するにプロとして他の誰よりも超越した魅力があるのなら、たとえ私生活などの面が気にくわなくとも、そちらは目をつぶろう。わたしはそんな人間だ。だから妻が非難する海老蔵も、芸が素晴らしいから許してもいいではないかと思う。