小説の地形学

幻景の街

前田愛さんの『幻景の街―文学の都市を歩く』*1岩波現代文庫)を読み終えた。
昨年11月、12月に『幻景の明治』と連続して文庫化された前田さんの著作、いずれも元版を持っていたのだが、未読なので文庫化を機会に読もうという思いと、解説が両方とも川本三郎さんということもあり、買い直した。
すでに元版は処分してしまったのか、以前書棚のあった場所に見あたらないので、きちんと確認できないのだが、『幻景の街』のほうは田村義也さんの装幀にかかる緑色っぽい本だった(『幻景の明治』は朝日選書)。
今回文庫版で読んでみると、漢字で書くべきところをわざとひらがなにしたり、「まなかい」などとあまり使われない和語を好んで用いたりする前田さんの流麗な文体は、かな文字のデザインが美しい精興社の書体でこそ引き立つものであると感じた。文庫化大成功と言うべきではないだろうか。
さて本書は、明治から昭和までの文学作品を、その舞台となった土地や街を実際歩き実感を交えながら、主として地形学的(トポログラフィック)な視角から作品を読み込んだ評論集である。評論集という言い方が堅苦しいのであれば、前田愛的文学散歩のエッセイ集とでも言い換えたほうがよいか。
その時々に作品で描かれた場所を実際に歩いた体験を通して、フィクションのなかの風景、つまり「幻景」が現在(本書が執筆された時点の現在)の風景と見事に混じり合う。読むわたしたちは、前田さんが歩いた場所だけでなく、取り上げられた小説作品の舞台となる場所にも、二重に入り込んで散歩しているかのような錯覚を得る。本書中最も新しい田中康雄『なんとなく、クリスタル』の青山・表参道でさえ、前田さんの筆にかかると幻景と化す。
かくして知らない場所でも行ったことのあるような感覚となり、何度も通っている場所ではまったく別種の顔を紹介されたような気分になる。わたしの場合は鴎外『雁』の無縁坂界隈、漱石三四郎』の本郷界隈がそうだった。
無縁坂と言えば、最近東京大学は文字通りの「門戸開放」を始めていて、本郷キャンパスの出入口を増設する工事が進んでいる。現在工事中のいくつかの門より一足先に、医学部附属病院入口近くに、「鉄門」が設けられた。鉄門とはもとより東大医学部の前身東京医学校の正門であったが、1918年に撤去されたという(→wikiペディア―東京大学の建造物)。
附属病院の整備によりこの鉄門が新しく設けられたため、昼休みなど上野・湯島界隈に散歩に出るにはとても便利になった。とりわけ鉄門再設以来、無縁坂を上り下りする頻度が多くなった。そんなこともあって前田さんが克明に辿りなおした『雁』の幻景に惹かれたのである。
それとともに本書でもっとも動かされたのは、中野重治『むらぎも』を取り上げた一章だった。小石川、本郷、白山界隈が、小説の時間の流れと複雑に入り組みながら事細かに描写されているのだという。

『むらぎも』にちりばめられている谷中・根津・本郷・小石川にかけての町の名や坂の名は、複雑にもつれた時間のタテ糸を解きほぐしてくれるインデッキスであるばかりでなく、ひとつの思い出をほかの思い出に切りかえる蝶番のような役割をうけもたされている。『むらぎも』は、街(空間)を歩きまわることが、記憶(時間)を呼びだすことに絶えず読みかえられて行く不思議な顔だちの小説なのである。(144頁)
点景として町が描かれるのではない。町の描写なくては小説の時間は進行しない。ゆえに町の風景は細かく描かれる。そんな面白さをもつ小説であると知った。
さいわい『むらぎも』は講談社文芸文庫版を持っている。書棚を二重に使って、前に文庫を並べた上にさらに横積みにして空間を埋めているが、野呂邦暢さんの文庫本7冊の一番下に重そうに沈んでいる本書を抜き出し、野呂さんの著作の一番上に置きなおした。
「あとがき」によれば、本書は前田さんの代表的著作『都市空間としての文学』*2ちくま学芸文庫)と並行して成ったのだという。本書が「実践編」、『都市空間としての文学』が理論編と位置づけられている。
名著の誉れ高い『都市空間としての文学』を知ったのは、乱歩文学にいかれていた頃のことだった。その後1992年8月、ちくま学芸文庫の創刊第2回目に文庫に入った。元版は大著すぎて、専門家でない人間には手を出しかねるものだったので、文庫版を喜んで購入した記憶がある。それから15年。ずっと書棚にあっていまも手にしているが、たまに書棚から取り出しては斜め読みするだけの本だった。いつきちんと読めるのかわからないけれど、ぐっと近づいてきたことは確かである。