リアルタイム感を得るために

映画が目にしみる

先日観た「犬神家の一族」に対する評言が何となく辛口になっているのは、ちょうど読んでいた小林信彦さんの新著『映画が目にしみる』*1文藝春秋)のせいかもしれない。本書のなかで展開される小林さんの歯に衣着せぬ映画(や演劇、書物)への鋭い論評を読んでいると、影響を受けやすい人間はすぐそんな気分で観た映画をばっさり切ってしまう。
例によって大学生協書籍部は本書を入れてくれない。しばらく我慢していたが、とうとう我慢しきれず最寄駅近くのショッピングモール内にある新刊書店で探すと、新刊書のコーナーにない。売れたのかしらんと、念のため文芸書やエッセイ集のコーナーをチェックするも見あたらない。ひょっとして…と映画本のコーナーに行ってみると、まるで何年も前からその場所に並んでいたかのように、一冊だけひっそり棚にささっていた。どういうことなのだろう。
映画本と言えば、小林さんは本書のなかで繰り返し映画本の洪水について触れている。最近の映画ファンであるわたしは、こうした映画本ラッシュは大歓迎なのだが、小林さんにとっては苦々しいところもあるらしい。その一例が、村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書)に対する痛烈な批判「あらためて知る〈映画は綜合芸術〉」だろう。
映画批評のあり方についても鋭く諷刺する。

 映画の批評を書く若い人が、やれ小津だとか、清水宏だとかいうのは、一種のタイハイだと思っている。
 映画は、封切られた時代、環境を知らなくては論じられないもので、戦前・戦時は神格化され、戦後も時代の外にいて「晩春」「東京物語」ほかで〈別扱い〉され、やがて映画ジャーナリズムの中でフェイドアウトしていった小津の在り方がわからずに、あれこれ言っても仕方がない。(「春休みに読む二冊の映画の本」)
「だから、批評家は同時代の映画を論じるべきだ、とつねに口にしている」とし、川本三郎さんの同時代映画論『美しい映画になら微笑むがよい』をあげているのは、川本ファンとして嬉しい(もっともわたしは同書を買ってすらいないけれど)。
もとよりわたしは批評家ではなくたんなる一映画ファンだから、嗜好が50年代60年代邦画に偏していることに文句を言われても平気なはずだが、小林さんにそう言われると、やはり同時代の映画も観るべきだよな、とちょっぴり反省の姿勢を見せないでもない。小林さんは驚いてしまうほどこまめに映画館に足を運び、自前で映画を観ている。
そうでないと上のような言葉は堂々と言えないだろう。本書収録のコラムの連載時期は2002年から今年2006年まで足かけ5年にわたるもので、この間成瀬巳喜男生誕100年という節目の年があったため、成瀬作品を取り上げる文章が多く収められている。
たとえば「成瀬作品への入門書」でも、「作品が発表されたときの〈リアルタイム感〉」の有無についてちくりと釘を刺す。そうは言ってもその時代に生まれていない後世の人間はどうすればいいのか。やはり「入門書」により少しでも〈リアルタイム感〉を体得するしかないのだろう。
小林さんは「稲妻」について、「東京の下町のもっとも〈下町らしい〉部分を描いた」「東京の下町という〈幻想〉が、見事にはがされる」と述べている(「成瀬監督生誕100年」)。この点については、別の一文「下町一家の混乱を描く成瀬作品「稲妻」」で詳細に論じられている。
下町に生まれた小林さんは、父親の死をめぐり親戚ともめていたとき本作品を見て身につまされたという。身も蓋もない下町暮しのリアルな部分が「稲妻」に強くあらわれていることが、自身の個人的事情と相まって強烈な印象を残したものと思える。こういう感じ方はやはりいまのわたしたちには不可能である。
本書最後の一文は、小林さん大のご贔屓クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」論であるが、これを締めくくる一文にも上記の思想が一貫していることがわかる。
近代戦の酷薄さと愛国心の虚妄――この映画が呼びかけるのはそれに尽きる。〈愛国心〉なんてものはないのだ!
こうした発言は、戦前・戦時の〈リアルタイム感〉を持つ人が言うから説得力がある。生来先の戦争に対する〈リアルタイム感〉を持たないわたしたちの世代は、それを獲得するための勉強を積まねばならない。
クリント・イーストウッドニコール・キッドマンから、大塚寧々や長澤まさみまで、小林さんは贔屓の人をとことん追いかける。現代の〈リアルタイム感〉を追う結果として、相武紗季堀北真希へ注目するあたり、まったく恐れ入るしかない。