モダン横溝作品への期待

喘ぎ泣く死美人

市川崑監督による「犬神家の一族」のセルフリメイクにより、横溝正史リバイバルの気運が盛り上がってきたようである。関連する書籍の新刊・復刊が目につく。
先日岩波ホールで映画を観るため神保町に立ち寄ったさい、東京堂書店で扶桑社文庫「昭和ミステリ秘宝」シリーズのひさしぶりの新刊『横溝正史翻訳コレクション 鍾乳洞殺人事件/二輪馬車の秘密』*1を目にして驚き、もちろんすぐ買い求めてしまった。平野甲賀さんの題字と森英二郎さんの版画で飾られたカバーが芸術品だ。このほか角川文庫からも『喘ぎ泣く死美人』*2が出た。新「犬神家」を観てこちらも“横溝モード”になっているいい機会だから、まずこちらを読んでみようと思い立った。
実は「犬神家」セルフリメイクの話題が出る以前から、わたしのなかで横溝正史作品再読という気持ちはあった。小・中学生の頃もろに直撃を受けた「横溝ブーム」のおかげで、横溝作品を買って読み漁った。強度の近視なのは、このとき夜中まで横溝ミステリを読み耽っていたためだ。その頃手に入れた一連の文庫本はおろか、新刊書店で入手が容易だった『真説金田一耕助』や『横溝正史読本』などを手ばなしてしまったことが悔やまれる。
友人たちと山形の映画館(たしか山形市内随一の新刊書店八文字屋の隣にあった)に「悪魔の手毬唄」「獄門島」「女王蜂」の三本立てを観に行ったのもこの頃で、後にも先にも映画三本立てを観通したという経験はこのときだけである。
古本屋でバイトをしていた学生時代(バブルの頃)、角川文庫の横溝本はだぶついて値段すら付けられず、店頭に並べられる以前に破棄される運命にあった。このとき破棄本のなかに含まれていた角川横溝作品を拾い集め、ふたたび「横溝コレクション」を構築しようとしたものだったけれど、それも頓挫して、そのとき集めた文庫本はまたもや処分してしまった。
中学時代は、横溝作品に流れる土俗的なおどろおどろしさや、○十年前の事件の真相がいま…などという強烈な謎解きの興味といった点に惹かれ、ただただ結末はどうなるのだという関心から、ぐいぐいと最後まで引っぱられていった。
ところがいまはちょっと違う。乱歩作品もあらかた読み、乱歩や正史が中心となった昭和初期の『新青年』文化の空気に興味が及んだ。松山巌さんの『乱歩と東京』などの名著を知り、実際自分が東京に住むようになったことで、それらの作品と都市東京の関わりを知りたくなった。横溝作品をテキストに「正史と東京」というテーマでも論じることが可能であり、金田一耕助をモダン東京のなかに置いてみることで、横溝作品にも別な読み方ができるはずだと考えるようになった。
そんな関心から、中学生時代にはほとんど目を向けなかった、金田一の登場しない横溝正史の昭和初期作品へと心が動いていた矢先だったのである。
この『喘ぎ泣く死美人』は短篇集で、デビューまもない大正10年から、敗戦直後の昭和21年までの18篇の短篇、ショート・ショートが収められている。
ストーリー・テラーの萌芽が見える「河獺」(大正11)や、いかにもモダン都市小説という雰囲気の「艶書御用心」(大正15)や「素敵なステッキの話」(昭和2)「利口すぎた鸚鵡の話」(昭和5)「相対性令嬢」(昭和3)「地見屋開業」(昭和11)「甲蟲の指輪」(昭和6)などがすこぶる面白い。ミステリの世界とはさほど接点がない、こうした軽くてオチも愉快なナンセンス風俗小説を読むにつけ、やはり横溝=金田一という観点に縛られてはいけないと思う。
もとより金田一ファンにとっては、敗戦直後に発表された金田一物傑作の先駆的作品とおぼしい「絵馬」(昭和21)や、陰惨で重苦しい雰囲気がたちこめる「夜読むべからず」「喘ぎ泣く死美人」なども入っているが、「本陣殺人事件」や「犬神家」、「獄門島」などを知っていると、ストーリーも緊密感がなく、いまひとつ物足りない。
幸い同じ関心から以前ブックオフ横溝正史の初期作品集『横溝正史探偵小説コレクション1 赤い水泳着』*3出版芸術社)を買っておいてあるので、これも引きつづき読んでみたい。