喜劇役者論の古典

日本の喜劇人

映画を観て、あらためて伴淳三郎という喜劇役者に興味を持った(→9/7条)。そこで彼について書かれた本がないものか、たとえば色川武大さんや矢野誠一さんら、喜劇役者の評伝を書いている人の本を漁った結果、たどりついたのは、小林信彦さんの『日本の喜劇人』*1新潮文庫)だった。
わたしは東京に来てから小林さんの本を読むようになったファン歴の浅い人間に過ぎないから、本書が名著の誉れ高いことを聞いてはいても、実際購ったのは新潮文庫の「今月の掘り出し本フェア」で重版された2001年4月とつい最近にすぎない。
余談になるが、『日本の喜劇人』に付いているフェアの帯を見ると、どうやらこの時期にフェアが始まったらしい。2002年3月までと期限が切られているが、好評なのだろう、現在も途絶えず続いている。わたしは新潮文庫の「今月の掘り出し本」が大好きで、毎月新潮文庫の新刊が並ぶ頃になると、今月は何が改版・重版されるかとワクワクしながらフェア専用の平台(8冊が平置きできる足の多少高い台)を見るのを楽しみにしている。
新潮文庫は歴史があるから、名著のストックもたくさんあるはず。こんな本が文庫になっていたのかという驚きもある。それらが毎月、ときには改版され文字が大きく読みやすくなって提供されるのは喜ばしい。たとえ古本屋で旧版が安く並んでいたとしても、お金を余計に出してフェア帯の付いた新版のほうを選択するほど、このフェアが好きだ。ちなみに今月は開高健さんのエッセイ集『開口閉口』*2を購った。
余談が長くなった。ともかく、買ってから4年半、ようやく読む機会が到来したわけである。この4年半という期間は、『日本の喜劇人』を享受するうえで必要な助走期間だったのかもしれない。読みながらまずそんな感想を持った。本書で触れられている喜劇役者たちが出てくる映画を見る機会が格段に増えたからだ。それでもなお、理解が及ばぬ部分が山ほどある。
これは、本書を書くにあたっての小林さんの姿勢によるところが大きい。「はじめに」のなかで小林さんは、「私は、自分の眼で見たものしか信じられぬたち」であり、「自分が見て確かめてきた事実を、ぽつり、ぽつりと記していって、それでいいではないか、という気持ち」で本書を書いたとする。
「自分の眼で見たものしか信じられぬたち」という自己分析を読んで、「ああ、そうなのか」と得心した。いまに至るまで小林さんは、一貫して「見た者でなければわからない」という、ある意味特権的な意識を前面に出し、過去の事柄を取り上げ、論じている。こうした姿勢はすでに『日本の喜劇人』に見えるのか。その意味での得心である。
「見た者でなければわからない」という特権的な意識は、人によって差別的姿勢と不快に受けとめられかねない。けれども、舞台を実見し、喜劇役者の肉声を聞いて実生活のひと齣を目撃した体験が、現場の空気を生き生きと伝える文章によって語られると、そんな不快感を一掃する。
たとえば、トニー谷が早稲田大隈講堂で行った実験的な舞台の目撃体験や(「第四章 占領軍の影」)、漫才史のドキュメンタリーでゲストに呼ばれて久々にコンビ漫才をやることになったエンタツアチャコのやりとりを目撃したときの衝撃。

私は、二人がスタジオで顔を合わせて、「石田(エンタツの本名)」「藤木(アチャコの本名)」と呼び合っていたときから、日常の会話が片っぱしからギャグになってしまうのに呆然としていた。日本語の会話はギャグにならないなどというのは嘘である。まわりにいる本職の漫才師が笑い転げるほど、おかしい。レコードなどでうかがうべくもないタイミングの妙、間、はずし方、――それは、おそらく、もっとも洗練された日本語の会話であった。(「第九章 大阪の影」)
しかも本書は、「はじめに」で書かれているような「自分が見て確かめてきた事実」だけが自慢げに語られているのではない。そこから導きだされる喜劇および喜劇役者に関する犀利な分析が展開されているからこそ、現在まで名著として語りつがれ、古びていないのである。
森繁久彌の芸を深く分析することにより、いわゆる「森繁病」というものの存在を指摘し、彼のたどった足跡を幻想のように追いつづけ、失敗していった芸人たちを批判する。さらに、映画「私は貝になりたい」のヒットがフランキー堺の喜劇的才能を圧殺したとするフランキー堺論、小沢昭一の「河原乞食」論、アチャラかとドタバタの違い。コメディアンおよび役者の才能を「もって生れた才能」と「その〈才能〉を生かすべき場所をさがす(つくり出す)才能」の二つに腑分けし、クレージーキャッツの面々がそのどちらの才能に秀でていたかを分類するなど、客観的な分析的視点に説得力があるため、実見の記録が自慢話に堕さない。
そこに色川武大さんによる解説がすばらしい花を添える。小林さんが手薄だとした戦前浅草における喜劇界の様相を、的確簡潔にまとめあげ、それらを支えていた社会的背景にも目配りを怠らない。小林さんの終章の叙述にも共通するが、喜劇を考えるうえで、背景にある社会的状況の把握が不可欠であることを教えてくれる。色川さんは、本書で触れられている少し前の喜劇界の状況を、自身の見聞を交えながら、こう結論づける。
小林さんは、戦時中、乃至敗戦直後の清水金一森川信などをあまり見ていないので、というけれども、以上の理由で、はっきりいって彼等が君臨していた時期の浅草喜劇は、時代という水面に咲いた浮草の花であった。
「時代という水面に咲いた浮草の花」のように、さらりと一筆書きで書かれたような比喩で表現されているが、見聞という裏づけなしにこうは言えない。
小林さんが本書で取り上げた喜劇人たちの実際の芸をほとんど追体験できないわたしたちは、ビデオやDVDなどでこれを確認するほかない。小林さんも、映像などで〈喜劇人たちの昭和史〉をたどるさいのガイドブックとして本書が活用されることを歓迎している。
本書の原点となるべき、小林さんが「生れて初めて、舞台の喜劇によって、からだ中を電流が走るような感覚を味わう経験を持った」(「はじめに」)のは、昭和16年7月有楽座における古川ロッパ一座の舞台だった。小林少年を「印象が圧倒的」としびれさせたのはとりわけ「ガラマサどん」だったという。
古川ロッパ昭和日記 戦中編』(晶文社*3をめくると、演じていたロッパ自身は体調不良もあってか、逆に不満をもっていたらしい。
「大満員である。(…)「ガラマサ」やってゝも馬鹿々々しい」(7月6日―二日目)、「「ガラマサ」どうにもつまらん。」(7月9日)、「「ガラマサ」どうにもつまらんので走り気味、(…)」(7月10日)、「「ガラマサ」いゝ加減ふざけるが、ふざけ栄えもしない。」(7月13日)、「マチネー大満員。「ガラマサ」段々くずれる。(…)夜の部大満員。どうもよく入る。」(7月20日)、「今昼「ガラマサどん」全国中継のため、順序変更「上海のロッパ」が先、次「ガラマサ」。むやみと客が笑ふから、面白いものみたいになったが、何うも近頃のあと口の悪さである。」(7月27日)。
ロッパは、自分ではどうにもつまらぬと不満の意を漏らす「ガラマサどん」が、どういうわけか大入り満員になっていることに対し、戸惑いを隠せない。小林少年はむやみと笑う客の一人として、有楽座の客席に座っていたのだろうか。
『日本の喜劇人』執筆当時、ロッパの日記は存在が知られていても、未公開だった。その日記が使われなかったのは残念だけれど、その後ロッパ日記に触れたわたしたちの特権は、演じる者とそれを観る者の間に横たわるこうしたズレを楽しむことにある。