追悼中北千枝子

「妻の心」(1956年、東宝
監督成瀬巳喜男/脚本井出俊郎/美術中古智/高峰秀子小林桂樹三船敏郎/三好栄子/千秋実中北千枝子杉葉子沢村貞子加東大介

この映画が公開された1956年には、1月に「驟雨」、11月に「流れる」という二つの名作も公開されている。この作品の公開は二つに挟まれた5月。二作に負けぬ佳品だった。
桐生にある老舗の薬屋が舞台。次男夫婦(小林桂樹高峰秀子)が店を切り盛りしているが、二人は、店に隣接した空き地に小さな喫茶店を建てる夢を持っている。あれこれお金をやりくりして、ようやく図面を引くところまでこぎつけた。高峰が、銀行に勤める友人(杉葉子)の兄(三船敏郎)に相談し、融資を受けることができたのだ。
高峰は開店準備で料理を習うため、駅前の洋食屋に通い、そこに近くに職場がある三船が通ってくる。洋食屋を営む夫婦が加東・沢村姉弟。「客を取られる」と冗談を口にしながら、高峰に料理の手ほどきをする、いつもながら気のいい加東大介
ところがそこに、店を継ぐのがイヤで家を出、東京でサラリーマンをしていた兄夫婦(千秋実中北千枝子)が幼い娘を連れてころがりこんでくる。不況で勤めていた会社がつぶれたらしいが、はっきり教えようとしない。お金に困っているらしく、弟夫婦に借金を申し込む。
本来なら家を継ぐべき兄夫婦が戻ってきてとまどう弟とその妻、弟に合わせる顔がないのだが、戻るべき場所もなく、体を小さくして実家にとどまる兄とその妻、次男夫婦の喫茶店の夢に渋い顔を見せつつ、戻ってきた長男の苦渋を察してあれこれ気を揉む老母(三好栄子)。家族五人がそれぞれ複雑な心の動きを見せる演出が素晴らしい。
小林は、家内がゴタゴタしているにもかかわらず芸者と温泉に遊びに行ったのを高峰に悟られ、なじられる。いっぽうの高峰は三船と映画を観に行くなど、心が揺れる。夫婦はどうなってゆくのか。…
これまでの成瀬作品(「めし」「驟雨」など)では脇で締めていた小林桂樹さんが、主役級にまわっていっそう光る。その小林さんは、この映画での三船さんについて、こう語る。

あれは三船さんがいいですね。僕は俳優として、どうして他の監督はああいうふうに三船敏郎を使わないのかと思いましたよ。黒澤さんのものよりいい。黒澤的に突っこむような、ワーッと前へ出す芝居じゃなくて、抑えた芝居でね。ああいう二枚目はいいなあと思いましたね。(村川英編『成瀬巳喜男演出術』ワイズ出版*1、118頁)
微妙な家族、夫婦の心の波でドラマを動かし、自然に幕切れを迎える成瀬作品の妙は、この「妻の心」にもいかんなく発揮されている。やっぱりいいなあとしみじみ観ながら、この作品の脚本を担当した井出俊郎さんのインタビュー(前掲書所収)を読んでいたら、「それでこのあいだ、見返したけど、やっぱりつまらない作品でしたね」とあってがっくり。
高峰秀子主演で映画を撮ることになり、井出さんは全部一人で脚本を書いたけれども、成瀬監督から半分くらい直され、それをまた全部書き直した挙げ句、「このおっちゃんとはもうやれないな」とつむじを曲げたという。これを読むと井出さんは、高峰・小林・三船の三人に佐分利信を絡めた「精神的姦通」のドラマを書きたかったらしい。結局「精神的姦通」の色は薄められてドラマを動かす一本の線にすぎなくなり、家族・夫婦間の微妙な心の動きをとらえる方針に変更された。成瀬映画はそれでいいのではないかと思う。
ところでこの映画の中で、登場人物たちが話す「喫茶店」のアクセントが気になった。高峰・小林は真ん中の「さ」にアクセントを置く発音で、千秋・杉あたりは現在わたしたちが話すような平板な発音(どちらかといえば「てん」にアクセントを置く)で話す。これは意図的なのかどうか。
美術を担当した中古智さんによれば、薬屋の黒漆喰壁の雰囲気を出すため、板に和紙を数枚貼ってそのうえから靴墨を何回も塗り込んで仕上げたという興味深い話もあって(中古智・蓮實重彦成瀬巳喜男の設計』筑摩書房*2)、やはり成瀬映画には興味は尽きない。
ここまで書いて夕刊を開いたら、中北千枝子さんの訃報が目に入ってびっくりした。享年七十九。急性心筋梗塞というから、急逝だったのだろう。成瀬映画ほかの日本映画には欠かせない脇役の名女優、まだ中北千枝子という名前を知らなかった初心者の頃、映画を観て気になる役者さんだと思っていたら中北さんだったり、気づかず見過ごしてあとで中北さんも出演していたりということが多々あった。東宝会長夫人だということは、以前市川古本屋めぐりのとき書友Iさんから教えていただき、そのときも驚いたものだった。
朝日新聞の訃報記事には、黒澤作品のほか、成瀬作品として「めし」があげられている。たしかに「めし」における原節子の旧友の未亡人役は印象深いが、これよりは「流れる」「稲妻」、さらに本作「妻の心」のほうがより脇役女優としての存在感を示しているのではなかろうか。
訃報では「日生のおばちゃん」役で有名になったとある。「日生のおばちゃん」のCMは歌だけいまも口ずさめるほど印象に残っているけれど、映像はまったく記憶にない。妻に訊ねても同じだった。どこかのテレビ局で流してくれないものか。
はからずも訃報を知った日(亡くなったのは13日とのこと)に出演作のことを書こうとしていたとは。思いがけない追悼鑑賞となった。つつしんでご冥福をお祈りしたい。