雷蔵との出会いは墓場にて

雷蔵好み

村松友視さんの雷蔵好み』*1集英社文庫)を読み終えた。
これまでわたしが観た市川雷蔵出演映画は以下にあげるたった三本。いくら時代劇をあまり観ないとはいえ、はなはだ少ない。

このうち最初の二本の時代劇は、川本三郎『時代劇ここにあり』*2平凡社)の刊行を記念して開催された川本さんの講演会を聴いて触発されたもので(→2005/10/1条)、結局一時的に盛り上がっただけに終わった。最近観た「陸軍中野学校」にせよ、雷蔵は関心の中心からずれている。とはいえ川本講演会で、雷蔵ファンの熱意を肌で感じたことは、映画俳優市川雷蔵という存在を意識させるに十分であった。
早世した映画スターとしての市川雷蔵の名前は知っていたものの、どんな人かは映画を観るまでわからなかった。でも講演会よりはるか以前に、なお現在に残るカリスマ的な存在感を感じたことはある。わたしは映像で本人の姿と出会う以前に、雷蔵墓所を訪れたことがあるのだ。
雷蔵墓所池上本門寺にある。わたしが本門寺を訪れた目的は、幸田露伴・文親子の墓所に詣でることにあった。するとひっそりしている幸田家墓所の近くに、なにやらひっきりなしに訪れる人のある一角があった。近くに行ってみると雷蔵墓所を示す看板目印が据え付けられていた。このあたりの瑩域のなかでもっとも華やいだ(というと墓所をあらわすのに不似合いだが)空間だった*3。似た雰囲気の墓所としては、谷中墓地の長谷川一夫墓所、鶴見総持寺石原裕次郎墓所を思い出す。
そんなことでわたしの雷蔵との出会いは「墓」という風変わりなものだった。そして映画。雷蔵を観たときの第一印象は「坂東三津五郎さんみたいだなあ」というもの。当代三津五郎さんをすっきりさせたような顔立ち。同じ歌舞伎役者として、雷蔵のねっとりした口跡も似ていなくもない。
さて村松さんは、雷蔵をめぐる数奇な生い立ちをわが身の生い立ちと重ね合わせ、シンパシーをもってたどり直してゆく。歌舞伎俳優市川九団次妻の末弟の子として生まれ、直後子のなかった伯母夫婦の養子になったという。
九団次の実子として育てられた少年はのち市川筵蔵を名乗り歌舞伎役者として舞台を踏む。のち武智歌舞伎に参加して、名門の御曹司である中村扇雀(現坂田藤十郎)・坂東鶴之助(現中村富十郎)らと切磋琢磨し、頭角を現わす。筵蔵時代は人気投票で西の一位を獲得したほどだという。
ところが門閥に恵まれないことに頭を痛めた育ての親九団次夫妻の決断により、市川寿海の養子となって雷蔵を襲名した。武智歌舞伎に参加していた当時の記述を読むと、若手の扇雀・鶴之助らが先鋭的な試みで伝統的な歌舞伎の世界に波紋を生じさせていたことがわかる。いまやこの二人は人間国宝。押しも押されもせぬ歌舞伎界の至宝である。
雷蔵は映画界に身を投じたとき、歌舞伎には年をとってから復帰する意向を持っていたという。彼が生きていたら、やはり藤十郎富十郎のような名役者になっていたかもしれない。また、歌舞伎の世界を離れたところでも活躍しているいまの染五郎海老蔵勘太郎七之助らも、将来藤十郎富十郎のように伝統を担う名役者になっているのかもしれない。それまで生きていられるだろうか。
結局寿海の養子になっても雷蔵は歌舞伎界の陋習に阻まれていい役に恵まれず憤懣を鬱積させ、映画界に身を投じることとなる。大映に入ってからは、雷蔵と並んで両輪として大映京都撮影所を支えた勝新太郎との間の不思議な交友関係が明らかにされている。ライバル同士で芸風も違い、もともとスター待遇で入った雷蔵と、下っ端から出てきた勝だから、さぞ軋轢があったかと思いきや、二人は仲が良かったというのだから面白い。
こうやって雷蔵の人となりを知り関心を抱いたいまでも、やはり時代劇や任侠映画には食指が動かない。ひとまず録画してある現代劇(「ぼんち」「破戒」「炎上」)を観たとき、この村松さんの本を思い出すことにしよう。

*1:ISBN:4087460614

*2:ISBN:4582832695

*3:本門寺にはその他松本幸四郎力道山墓所もあるが、それぞれ雷蔵や幸田家の墓所がある位置からは遠く離れている。