涙腺破壊

「沓掛時次郎」(1961年、大映
監督池広一夫/原作長谷川伸市川雷蔵新珠三千代杉村春子志村喬/稲葉義男/島田竜三/滝花久子

川本三郎さんは、木下恵介監督の追悼文「追悼・木下惠介 「時代」の終りを見つめる悲劇」(キネマ旬報社刊『映画を見ればわかること』*1所収)の冒頭で、「いま木下惠介が好きだというのはかなり勇気がいる」と書いている。木下映画を見て涙することに恥ずかしく感じ、隠しておきたい気になるからという。
つづけて、50年代に光り輝いていた木下映画が、いまやまったく語られなくなったのは、こうした「涙」と無縁でないとする。

端的にいえば、日本人は六〇年代以降、泣かなくなった。泣くことを女々しいこと、見苦しい、恥かしいことと思うようになった。おそらくこれは高度成長という明るい時代の気分と関わっている。国を挙げて成長に向って前進する時代には、「涙」など厄介なものでしかない。(330頁)
先日何かのテレビ情報番組を見ていたら、最近映画などを観て泣くことをストレス解消の手段としている人が増えた、男性も人前憚らず泣くようになったという話が特集されていた。川本理論に即して言えば、高度成長で振り捨てた「涙」を、時代の変化(「明るい時代」の霧消)とともに日本人は取り戻しつつあると言うべきだろうか。
わたしも最近涙もろくなって、どうにも困ってしまう。別にストレス解消のため、わざと「お涙頂戴」のソフト(小説・映画)を選んで読んだり観たりしているわけではない。ただ、ちょっとした誘引要素(たとえば子供・別れ)によって、胸が熱くなり、ほろりとさせられるのである。
「沓掛時次郎」もラストに泣かされてしまった。「ええっ、この映画で泣くの?」と訝しむ向きもあるかもしれない。わたしのいまの心もちがラストの時次郎と太郎吉の別れの場面で揺さぶられてしまったということだろう。
自ら最初にひと太刀を浴びせた結果、ヤクザ集団の抗争のすえ斬殺された渡世人の遺された妻子(新珠三千代)を実家に送り届けようとする無償の精神、侠気。一匹狼の渡世人沓掛の時次郎(市川雷蔵)が、新珠らを追いかける須賀不二男やその兄弟分稲葉義男の魔の手から守り抜こうとする。
中山道熊谷宿の宿屋桔梗屋に投宿した時次郎一行は、女将(杉村春子)や熊谷宿を縄張りとする親分志村喬の保護を受ける。この映画はこの二人の配役がポイントになりそうだ。杉村春子は台詞まわしがサラサラと軽い。自然体(リアル)と感心するいっぽうで、軽すぎやしないかと逆に違和感をおぼえる。
新珠は熊谷宿で結局亡くなり、一人になった遺児の太郎吉を新珠の実家足利まで送り届ける。祖父母のもとに孫を託して急ぎ足で帰る時次郎の背中に、「おじちゃん」と叫びつづけ、最後に「とうちゃん」と呼びかけが変わったところで、時次郎はギクリと立ち止まる。しかし涙を拭いながら振り返らずに、もとの一匹狼渡世に戻るのだった。バックには橋幸夫の唄が流れる。
典型的な股旅物映画で、これで泣けるのは木下映画を見て泣くよりも、恥ずかしい。涙腺が破壊されてしまったのかもしれないなあ。
沓掛時次郎 [DVD]