銀座フィルター

銀座四百年

1936年に制作された映画「東京ラプソデイ」によって、銀座のランドマーク服部時計店(和光)の時計台にも「若い時代」があったことに気づかされた(→1/8条)。あたりまえながら、「時計台がない銀座」という時代もあったわけである。
そんなことを思っていたら、これまた昨年12月に買っていた本のことを思い出した。岡本哲志さんの『銀座四百年―都市空間の歴史』*1講談社選書メチエ)である。こういう機会にこそ読むべき本だとさっそく読み始めた。
著者の岡本さんは「岡本哲志都市建築研究所」を主宰し、東京の都市空間史、都市形成史を調査研究されている方のようだ。本書はその観点から銀座という空間に限定し、都市江戸が作られた16世紀末から現代に至るまで、その形成史や空間的特徴を見通した内容となっている。かなり緻密な分析が行なわれ、叙述が専門的にわたる部分もあって、読み進めるのに苦労したが、なるほど江戸時代から見通すことで銀座という空間が東京のなかでいかなる位置をしめ、いかなる特徴を有しているのかがよくわかってくる。
岡本さんは、自身と銀座との出会いをこのようにふりかえっている。

銀座はグリッド状に街が構成されており、地図で見る限り実に明快である。しかし、はじめて訪れた高校生の頃を思い出すと、わかりやすい街であったとは言い難い。郊外電車に揺られ新宿に着き、地下鉄の銀座駅で下車し、地上に上がった。四方には同じような町並みが真っ直ぐに延び、どちらに向かって進めば目的地に行けるのか、途方にくれたことがある。わかりやすいはずのグリッド状のパターンが身体の方向感覚を失わせていることにも気付かされた。(8頁)
ひるがえってわが身の銀座体験を思い出してみると、似たようなものであった。歌舞伎座に歌舞伎を観に出かけるときなども、銀座四丁目の交差点で地上に出るとまず和光と三越の建物の位置を確認してからやおら行動を始める。座標をまず確定させなければ銀座を歩けない。地上に出てもしばらく銀座の座標を感じとる方位磁石が働かないのである。わたしより銀座を歩く頻度が少ないはずなのに座標感覚を手早く自分のものにした妻からは、いつになったら銀座の方向がわかるのかと呆れられる始末。これでもわたしは方向音痴ではない。
ところで岡本さんに言わせれば、銀座の特徴は江戸以来の町人地としてのブロック構成をほぼそのまま街区として現在に伝えていることだという。銀座通りの幅員も当時のまま。だから休日の歩行者天国のおり銀座通りの真ん中を歩けば、江戸の人びとの空間感覚が味わえる。表通りと裏通りを結ぶ路地もそのまま残っている場合がある。
むろん銀座は明治における煉瓦街建設と、震災・戦災という二度の災害に見舞われているうえ、高度経済成長期における掘割の埋め立て、高速道路建設という事態にも直面しているから、まったく当時の空間構造をいまにとどめているというわけではない。
しかしながら通りや路地によって組み合わされた全体的な空間構造が骨組みとしてしっかりしているため、それらと建造物との関係性が強固に守られ、無秩序な都市形成を阻止した。
こうしたハード面の伝統だけでなく、そこに住まう人たちという面でも、伝統が強く作用していることがわかる。この点は本書でもっとも印象的だった「銀座フィルター」という言葉に集約される。「銀座で商いを望む人たちを拒まないが、街に同化できなければ自ずと去っていく、篩のようなもの」(168頁)、これを銀座の人たちは口にするという。
「銀座フィルター」に生き残った人びとによる街を育てようという努力によって、都市空間としての銀座はいまも特異でありつづける。銀座を歩くときの高揚感、これは他の盛り場を歩いているときとはちょっと違う。伝統的な空間構造とそこに住む人びとの意識が相まってできあがる独特の雰囲気がそこに感ぜられる。
ここではからずも思い出したのは、先日観た映画「銀座っ子物語」だった(→1/6条)。大阪生まれでバリバリの大阪弁を話す呉服屋の旦那中村鴈治郎(二代目)が、裏店ながら呉服屋を銀座で続けていけたのは、朝風呂や小唄を愛し、銀座には彼を凌ぐ人はいないというほどの「粋」を身につけているゆえだった。鴈治郎は「銀座フィルター」に生き残ったのである。