それでも納豆を…

納豆の快楽

毎年のことだが正月休みはぐうたらに過ごす。だから、東京に戻るとたいてい体重が増えている。今年も、脇で妻が「2キロ増えた…」と暗に同意を求めるように嘆いたのが耳に入ったけれど、あえて反応しなかった。直前自分も体重計に乗り3キロ近く増えていたのにショックを受けていたからで、自分の増量分が多かったことが癪だったのだ。
テレビ局の戦略につくづく感心したのは、そんな正月休みでの体重増加組に照準を合わせたかのように「○○でやせられる」という番組を制作したことで、それが「発掘!あるある大事典2」の納豆特集なのだった。
正月休みでの体重増加を嘆く組にはうってつけの情報。しかもわが家の場合、好きで毎日のように食べている食べ物でやせられるのだから、願ったり叶ったりだ。その日以来、毎日2パックを朝夕1パックずつ、かきまぜて20分置いてから食べるという「教え」をきちんと守り、ひたすら納豆を食べつづけた。
同じ希望を持った人はたくさんいたようで、スーパーから納豆が消えた。それでもちょっと高めの納豆を購入して食べつづける。朝食がパンのときは、食パンの上にかきまぜた納豆をのせ、そのうえにとろけるスライスチーズをのせて焼き、食した。熱で溶けたチーズが、納豆のつぶつぶがパンから落下するのを防いでくれる。なかなかうまい方法だと自賛した。
身体から“納豆臭”がただようのではないかというほど朝夕毎日食べつづける。寒くて部屋の換気を怠ると、途端に納豆臭が部屋に充満する。仕事から帰って居間に入ると、靴下の臭気が鼻につく。「あれ、昨日履いた靴下脱ぎっぱなしだったっけ?」としばらくあたりを見回して、ようやく臭気の原因に気づくのである。それほど納豆漬けの毎日だった。
番組で言っていた二週間には到達していないが、一週間ほど食べたから少しは減ったかなと期待して計ってみると、たいして変わっていない。規則正しい生活に戻って仕事を始め、粗食になった分の「自然減」がいいところ。まあもう一週間根気強く食べれば目に見えてベルトがゆるくなるかもしれないと思ったところに、今回の「捏造」騒動を知って愕然とした。
関西テレビの「お詫び」を観て、テレビ番組作りのいい加減さに憤り、納豆を食べても体重減は望めないことに落胆したものの、納豆を食べつづけていることを悔やんではいない。実際今朝も同じように納豆を食べている。こんな情報がなくとも、納豆は立派な優良食品なのであり、身体にいい食べ物であることに変わりはないから。
醸造科学の権威小泉武夫さんの『納豆の快楽』*1講談社文庫)は、そんな納豆を食べる楽しみとその効用を知るためにうってつけの、愉しい本である。文庫新刊時(12月)買ってそのままになっていたが、今回の「やせられる」情報によりにわかに納豆を大量に摂取し始めてから読み始め、読み終えた直後捏造騒ぎを知った。もしかしたらこの本も納豆同様今回の騒動で売れ行きが伸びたかもしれない。
もとより小泉さんは納豆好き。海外滞在にも納豆パックを大量持参するほどの納豆礼賛者で、海外で何かお腹をこわしそうな食べ物を口にしたことがわかったら、直後に納豆を2パックほどかきまぜて掻き込む。すると翌日以降何ともないという。そんな実体験が、自身の専門的な知識に裏打ちされて開陳されているから、納豆好きにはたまらない。納豆が好きでよかったと心底思える本なのだった。
小泉さんの本には、食中毒防止や血栓症予防、アルツハイマー予防になるといった効用は説かれているものの、さすがにやせられるとまでは書かれていない。それでもいいのだ。納豆を美味そうに食す口語調の文章を読むだけで涎が出て、納豆を食べたくなるのだから。
小泉さんによれば、都道府県別一人当たりの納豆消費量ランキングは、一位福島、以下岩手、秋田、宮城、青森、山形、栃木、茨城、北海道、群馬の順だという。東北地方が群を抜いている。ただわが山形県が東北六県中最下位というのは承服できない。納豆汁や納豆餅など、山形生まれのわたしは子供の時から納豆とともに大きくなってきたのだ。
ご飯にかけて食べるのでも、たんに醤油をたらしてかきまぜたシンプルなものだけでなく、卵をまぜたり、とろろをまぜたりするほか、プロセスチーズを小さくさいころ状に切ってまぜたりして食べた。このあたりは小泉さんの本でも紹介されている。チーズと納豆の相性は意外にいい。納豆にスライスチーズのトーストは別にゲテモノでも何でもない。
小泉さんの本に紹介されていないわが家(母親と言うべきか)独自の食べ方としては、納豆に普通の味噌と砂糖を入れかきまぜたものをご飯にのせて食べる「納豆味噌」がある。これをやると、納豆をまぜたときのネバネバ感がなくなって、納豆好きには物足りないかもしれないが、納豆に「甘辛さ」も合うことがよくわかる。
山形独自かもしれない「納豆料理」に、「ひっぱりうどん」がある。地域によっては「ひきずりうどん」と呼ぶところもあるらしい。食べ方は簡単、素麺や細めのうどんをゆで、納豆とネギを入れたつけ汁で食べる、それだけだ。
何を食べようか迷ったとき、冷蔵庫に食材があまりないとき、作るのが面倒なときなど、季節を問わずわが家では「ひっぱりうどん」を食べる。子どもたちにも好評なのだが、たぶん東京育ちの友だちなどに「ひっぱりうどん」の話をしても、首をひねられるに違いない。山形の伝統は根強く受け継がれる。
学生時代仙台に暮らすようになって、研究室のコンパである飲み屋に行ったとき、メニューの中に「ひっぱりうどん」を見つけたわたしは、同郷の友人と驚喜し、さっそく注文した。居酒屋メニューらしく上品に仕立てられていたものの、しばらく忘れていた家庭の味を思い出したのである。
しかもそこで目新しかったのは、つけ汁のなかに細かく刻んだたくあんが入っていたこと。うどんのつるつるした食感と、納豆のねばねばした食感に、たくあんのこりこりした食感が加わってすこぶる美味だった。
小泉さんは本書の中で、納豆のテクスチャー(舌触り、食感)を強調している。たとえば東北地方にある「イカニンジン」という惣菜(スルメを切ってニンジンと和え、味付けしたもの。わたしは知らなかった)を出されたとき、試みに納豆をまぜてみたら…。

そうしたらピッタシカンカン正解入道。納豆に信じられぬほどのうま味と奥の深いうま味が乗ってきて、正直申しまして驚いたことがありました。噛むたびに口の中はシャリシャリシコシコヌラヌラ、シャリシャリシコシコヌラヌラとなりまして、まさに三大テノールの美声かピアノとヴァイオリンとチェロの三重奏の合奏のごときでありました。(218頁)
「シャリシャリシコシコヌラヌラ」という食感は、たくあん入りひっぱりうどんのそれを表現するときにもぴったりなのだ。ひっぱりうどんを思い出し、小泉さんのテクスチャー理論が納得できたのだった。この居酒屋には別に「納豆天ぷら」もあって、これも素晴らしかった。サクサクとした衣のなかから、納豆のねばねばが飛び込んでくる快楽。
一度その居酒屋に妻を連れて行って味わわせ、見よう見まねで「納豆天ぷら」を作ってもらったことがあったが、衣がベタベタになってどうもいけなかった。納豆のねばねばを殺さずサクサクに仕上げるこつがあるらしい。小泉さんの本でも「納豆天ぷら」は紹介されていた。
その他漬け物と納豆の相性の良さにも納得。わたしは山形名産の菜っ葉漬けである「おみ漬」を納豆にまぜてご飯と一緒に食べるのが大好きなのだが、調べてみるとこんなことは山形では当たり前なのだった(→http://minkara.carview.co.jp/userid/137548/blog/3306339/)。
今回の騒動により、品薄のため奔走した販売側の方々や、急な増産に追われた生産業者の方々は気の毒で仕方がない。何しろ虚の情報に踊らされたのだから。ただ個人的には、まあやせるのは別の方法に任せるとして、ますます納豆を食べるようになって、小泉さんの本を読むきっかけを得たのだから、決してマイナスではなかったのである。