テラヤマ病になり損ねる

寺山修司―過激なる疾走

高取英さんの寺山修司―過激なる疾走』*1平凡社新書)を読み終えた。寺山修司の晩年に出版関係のスタッフを務めていたという高取さんによる寺山の評伝である。「出版関係のスタッフ」というのは、出版の窓口であったり、競馬関係のエッセイの取材を行なったりしていたことを指す。
本書の目的は「常に〈既成の秩序〉に〈反発〉するところがあった」(87頁)という寺山の思想がいかにして形成されていったのかを探る点に置かれている。エリートが嫌いで、左翼や学生運動に同情的であるが政治的人間ではなく、彼ら以上にアナーキーな考え方を持ち、「〈価値紊乱の時代〉の煽動者」(第九章の章タイトル)たらんとした寺山修司
晩年身近にいた人ゆえか、おおむね寺山の行動には肯定的で、学生時代の短歌剽窃をめぐるスキャンダルや、逮捕されるに至った晩年の「のぞき疑惑事件」に対しても、寺山を擁護する側に立つ。説得力云々より、わたしも高取さんの意見に賛成である。
寺山は競馬を人生に重ね合わせて論じることで、文学的領域まで引き上げた。競馬は血のスポーツ。血統が能力を左右する。血統の優劣により劣ったとみなされた馬を応援し、逃げ馬をひたすら前を向いて突き進み後ろを振り返らない人間にたとえて偏愛した。わたしもこんな寺山の競馬エッセイ・小説の大ファンである。
寺山修司に関する本を読むと、たいがい「テラヤマ病」に罹る(→旧読前読後2001/11/14条)。寺山修司という人間の魅力に取り憑かれ、彼の書いた本をもっと読みたくなるのである。
ところが今回に限っては、高取さんの本を読んでも「テラヤマ病」に罹った気配が見られない。どういうわけだろう。決して高取さんの本がつまらなかったわけではない。映画ばかり観ていると、感受性がそちらのほうに持っていかれてしまい、活字に対する感受性が弱体化してしまっているのか。
勇者の故郷―長編競馬バラード (ハルキ文庫)
テラヤマ病に罹りはしなかったけれど、ちょうどこの間古本屋で勇者の故郷―長篇競馬バラード』*2(ハルキ文庫)という本を入手したので、勢いをつけて読むことにした。以前(2000年)ハルキ文庫でまとめて寺山の本が文庫化されたさい、買い漏らしていたうちの一冊だった。
サブタイトルにあるように、「勇者の故郷叙事詩のスタイルをとって、馬を愛した少年の人生が描かれる。同じく収録作の「サラトガ、わが愛」は「勇者の故郷」のバリエーションで、脚本形式になっている。このふたつの間に「競馬短篇集」として5篇が集められた「ロング・グッドバイ」が収められている。
このなかでは、逃げ馬キーストンに対するオマージュ「夕陽よ、急ぐな」がいい。なぜ逃げ馬には魅力があるのだろう。わたしも逃げ馬は大好きだ。わたしが競馬に夢中になった頃、代表的逃げ馬といえばツインターボだった。さらに絶頂期にターフに散ったサイレンススズカや逃げて逃げて皐月賞・ダービーの二冠を奪取したサニーブライアンなど、馬券的には儲けさせてもらったという経験はあまりないが、逃げ馬ほど見ていてワクワクさせられるタイプはない*3
寺山修司は、キーストンには運命的なものがあるという。

それは、まるで盗みを働いた少年が必死で裏町を逃げていくような、言葉につくせぬ悲劇的なムードを感じさせたのであ。(195頁)
さらに政治的逃亡者に逃げ馬を絡み合わせ、兄が政治的逃亡者だったという女性からの書簡を紹介した文章は次のように締めくくられる。
逃げつづける者の故郷は、この世の果てのどこまで行っても、存在しないものなのだから。(201頁)
昔のわたしなら、こういう感傷的な詩句にしびれてしまったのだが、いまはそれほどでもない。琴線に触れないのが悲しい。これがわたしの「寺山離れ」を示すものなのか、あるいはたんにいま活字に対する感受性が弱っているだけなのか、もう少し慎重に見定めなければなるまい。

*1:ISBN:4582853315

*2:ISBN:4894565641

*3:その反面切れ味鋭い末足を持った馬も大好きだった。たとえばサクラチトセオー