『日本史年表』ばかりが…

月の輪書林それから

買ってからちびりちびりとなめるように読み進めてきた高橋徹月の輪書林それから』*1晶文社)を読み終えた。
本書の兄貴分にあたる『古本屋月の輪書林*2晶文社)を読んだのはいつだったろう。処分せずに本棚の奥に眠っていた同書を取り出して見ると、わたしが持っているのは1998年7月10日の2刷である。初刷が同6月30日だから、版元の予想以上の売れ行きを示したということなのだろうか。98年7月と言えば、わたしが東京に移り住んでまもない時期になる。
この2刷直後に買ったものなのか、だいぶあとになって買ったものが2刷だったのか、憶えていない。この本もまた、わたしに寺山修司のことを教えてくれた読書道の先輩から教わったような気がする。
「古書目録がすごい古本屋がある」と言われたのはかすかな記憶にある。これにつづけて「その古本屋が書いた本だ」と同書を紹介されたのだったか、もしくはその言葉を受け古書目録を取り寄せ、しばらくのちに同書と出会ったのだったか…。月の輪書林との出会いはかくも曖昧だ。
いずれにせよはっきりしているのは、取り寄せた月の輪書林の目録も、『古本屋月の輪書林』も、当時のわたしにとって歯が立たないほど、底知れぬ深い知の藪が広がっていることを目の当たりにさせられた、衝撃的な存在であったこと。以来、ときおり東京堂書店の店頭で目にしたり、書友のサイトで目にしたりする目録を手にできないでいる。
このたび出た『月の輪書林それから』を読んで、自分がなぜ月の輪書林の目録に手を出しかねているのか、何となくわかったような気がした。対象を買うか買わぬか、テーマを知っているか知らないのか、そういう問題ではなく、そこに載せられた書物・資料がたんなる売買の対象物たることを超え、「史料」として一人の人間が生きた歴史、あるいは彼と関わりのあった人物の歴史、また彼らが生きた社会の歴史を編む素材となっていることを、「古書目録」という存在によって実証した稀有の「歴史書」となっていたからにほかならない。アカデミズムの側で安息して歴史を学んでいた自分にとって、この手法は衝撃的で、ゆえに本能的に忌避することになったのではあるまいか。
最初の本を読んでから、高橋さんご本人が参加するトークショー山口昌男内田魯庵山脈』刊行にさいしての企画)を聴いたり、東京という場に住みながら古本の世界にそれまで以上に身近に接するようになるなかで、いくぶんか高橋さんが関心を寄せる世界に自分も近づくだけでなく、その手法にも大きな共感を抱くようになった。
本書は、現今の成果主義により年を経るごとに質を低下させているようなアカデミズムの学問ではなしえない、迂遠ではあるがきわめて真っ当で緻密で実証的な歴史学の方法論を述べた書であると思う。
アカデミズムやジャーナリズムでは今後も取り上げられることのないだろう、李奉昌という天皇に爆弾を投げつけた人物の像を周辺の史料から浮かび上がらせようとする営みについて、「この仕事は古本屋だからこそ出来る仕事だもの」(178頁)と書く。たしかに古本屋だからこその資料との出会い、情報収集に大きく拠っているところはあるものの、方法は根本的にはこつこつと関連文献を読み、資料を集めては断片的な情報を組み合わせてゆくというきわめて基本に忠実な実証主義的方法なのだ。
高橋さんには古本屋としての立場を強く意識するゆえに、収集し目録に掲載する資料はあくまで一過性の商品であり、そこに書かれた内容の公表は購入者に委ねられるべきという禁欲的姿勢がある(たとえば275頁)。常識的には古本屋としての立場としてごく当然の姿勢であり、それを公開を前提とする自著には記さないのは納得できるのだけれど、読者としてはその先、高橋さんが古書収集・目録作成の過程で明らかにしえたことは何なのか、結論を知りたいという欲望を禁じえない。
森銑三について、その「著作に高い本はない。今後も高くなることはないだろう」としながら、その学問に対する気迫に心酔し、均一に回すことをせずによかったと心底思う。「「学者」という名にふさわしい男の本を安く売ってはいけない」(64頁)から。
また、三木卓さんの父親森武夫の詩集が気になり、石神井書林に問い合わせたところ、「あれは、ない本だよ」と言われ、残念に思いながら内心ホッとする。「簡単に手に入ったら、森武夫に申し訳ない」(80頁)から。こんな著者に対する篤実な敬意が、古本屋月の輪書林への信頼感を高めずにはおかない。
今後いつ手にできるかわからないような稀少本を、自家用の本として読みつぶすべきかどうか迷う。その過程でつぶやく次のひと言に、大いに共感し、高橋さんに親近感が沸いてくる。

これに、赤鉛筆や青鉛筆を入れられるか。お客さんの手に渡してこそ古本屋だろうという、もっともな声が聞こえてくる。そうすれば本は生きる。でも、どうした性分か、これがコピーではだめなんだな。コピーにしたとたん、一度として読んだためしがない。(88頁)
いっぽうその直後、名古屋の郷土玩具雑誌『風車』に寄せられた文章を読んで放たれたこんな強い言葉に、私のような立場の者はたじろがざるを得ない。
『日本史年表』(岩波書店)ばかりが、歴史じゃないよ。そう、『風車』が、ぼくにささやく。(89頁)