ディテールの積み上げ

小さき者へ

夏休み中のプール開放に通う子供を学校まで送っていく。校門の前で同じクラスの友だちと出会ったらしく、お互い名字呼び捨てで呼び合い、それからわたしに見向きもせず肩を組んで校内に入っていった。当たり前のことだが、彼が産まれてから、下の名前で呼んでいる。幼稚園に入っても、先生はじめ同じ組の友だち同士は○○くん・○○ちゃんと、君付け・ちゃん付けで呼び合っているから、自分の子供が自分と同じ苗字で呼び捨てられているのを耳にしたとき、ひどく新鮮な気持ちになった。
自分にとっては名前で呼ばれる対象である子供が、彼のクラスメイトにとっては苗字(もしくはあだ名)で呼ばれる友人となる。そんな場面にでくわし、自分の少年時代がよみがえって新鮮な気持ちになると同時に、子供の成長を思い、時間の流れを感じたのである。
重松清さんの小説は、きっとこんな日常生活のふとした瞬間に感じる親の気持ちのディテールを丹念に拾い集めることから始まるのだろう。ちょうど重松さんの短篇集小さき者へ*1新潮文庫)を読んでいたおりもおり、自分がちょっぴり重松さんの世界に近づいたような気分になって愉快になった。
もっとも『小さき者へ』に収録されている各短篇は、愉快になるというよりは、将来のわが身わが家族の姿を先取りしているかのように感じ、不安をおぼえたと言う表現のほうが当たっている。
ほとんどが他の重松作品と同じく40代前後の男が物語に登場する。仕事のうえでも家庭のなかでも、それまで後ろを振り返らず突き進んできたが、ひと息つくため立ち止まり、あらためて回りを見回したり、自分の立つ地面を確かめてみると、あるべきはずのものが遠くに置き去りにされていたり、ぐらぐらと不安定な道を気づかず走っていたことに気づいて愕然とする。
子供が難しい時期にさしかかる。学校でいじめを受けているらしい。勉強が嫌いで、ひと思いに学校をやめ別の道を歩もうとしているらしい。自分がそのくらいの年齢のときにも思い当たるふしがある。それを経験していまこうして親という立場にあるのだから、経験者として子供に有効なアドバイスをしたい。子供といかにしてコミュニケーションをとるべきか。小説から親の苦悩が伝わってくる。
本書収録の短篇のなかで、もっとも涙腺が刺激されたのは、最初の「海まで」だった。大人しい長男と屈託のない次男の二人の子供がいる。毎年夏休みに実家に帰省するが、実家の母親は次男ばかり可愛がる。それを感じている長男はますます祖母から遠ざかり、自分の殻に閉じこもろうとする。かつては母も長男を可愛がっていたはずなのに、なぜ変わってしまったのか。そんな家族のなかの微妙な関係の推移が、祖母の気持ち、父の気持ち、母(妻)の気持ち、長男の気持ちと登場人物それぞれの気持ちをあますことなく描き出すことで物語られる。
子供が困難に直面したことを知った親は、どうすればいいのか。重松さんの作品はその解答集ではない。けれど少なくとも解き方の手引き書であるだろう。日常に感じるディテールをそのままにしておくのではなく、その気持ちを大事に心におさめておくことと、絶えず他者の気持ちを慮る想像力を忘れないこと。この想像力の広げ方があるかぎり、重松さんの家族小説は色褪せずに受け入れられるものでありつづけるに違いない。
たまたま朝日新聞の書評欄で、重松さんによる北村薫ひとがた流し』評に接した。北村薫さんの語り口はあくまで優しく、透明感にあふれた描写とともに、豊かなディテールを積み上げる」という文章で同書を評している。ディテールの積み上げという点では、重松さんも負けていない。いや、自ら実践しているからこそ、他人のやることが見えているのだろう。