川上弘美のストライク・ゾーン

ざらざら

川上弘美さんの最新短篇集『ざらざら』*1(マガジンハウス)を読み終えた。同社刊行の隔月刊誌『クウネル』に連載された短篇を中心にまとめられたもので、一篇が10頁前後の、短篇と掌編の中間といった分量の短い小説が23篇収められている。
わたしは『センセイの鞄』以来の川上ファンであり、最近でも小説では『龍宮』(→旧読前読後2002/6/30条)、『ニシノユキヒコの恋と冒険』*2文藝春秋、→2003/11/29条)、『古道具中野商店』*3(新潮社、→2005/4/8条)などを面白く読んだ。エッセイでも、最近の『此処彼処』*4日本経済新聞社、→2005/10/24条)や『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』*5平凡社、→2005/9/28条)のほんわかとした世界に、現実生活のせわしさを忘れる心地にさせられた。
にもかかわらず、今回の『ざらざら』にはさほど心を動かされなかった。なぜだろう。これまた最近の“活字離れ”による活字に対する感受性鈍化の一現象なのか。
そうやって自分のせいにして、川上文学好きという意識を高いレベルで保っていけば円満におさまるのだろうけれど、原因をことごとく感受性鈍化に帰してしまうのも癪である。あえて本書の側川上さんの側に問題はなかったものか、あれこれと考え、理屈をつけようと試みた。
本書でも、いわゆる「川上ワールド」全開で、ところどころでフフッと笑ってしまうようなおかしな味わいにすぐれ、川上ワールドに住む人びとの生活や行動様式に、愛着とも言うべき好意を抱いたのは変わりない。ひとつ気になったのは、一篇一篇の分量、言い換えれば短さである。上にあげた川上作品は長篇か、もしくは連作短篇集であり、個別の短篇にしてももう少し分量が多いものばかりだ。
『ざらざら』では、「川上ワールド」の人びとが生き生きと自己主張をするには一篇の分量が短すぎたのではないかという仮説を立ててみた。限られた短さのなかで川上弘美的小説世界を展開させた結果、「川上ワールド」のエッセンスばかりがギラギラと目立ってしまったような感覚。
疑似同性愛とも言うべき女性同士の友情の話が「桃サンド」や「卒業」に出てくる。これまでも川上さんの小説にはこうした女性同士の友情話がよくあった。でも本書においては同性愛的な情感がむき出しになっているように感じたのである。もう少しゆったりした長さの物語が「川上ワールド」にはふさわしいのではないか。川上さんのストライク・ゾーンというか、ヒッティング・ポイントは、50〜60頁前後の短篇から、連作短篇、長篇にあるのではないかと思い至った次第である。
とはいえ冒頭の一篇「ラジオの夏」などは、川上さん以外こんなことを書く人はいないだろうという風変わりな世界が描かれており、この短篇から始まった本書に大きな期待を抱いたのも事実である。「風の吹くまま旅をしよう」と奈良に出かけた若い男女。でも奈良に着いたら着いたで「鹿くさい」と悪態を吐く。ライトアップされた大仏を眺めたり、鹿せんべいをむさぼり食う鹿にたじろいだり。
この不思議な味わいはむしろ『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』(日記一日分の記述)に通じる面白さであり、わたしはそれが大好きなのだ。短ければよし、それからちょっと長くなると違和感をおぼえ、さらに長ければやっぱりいい。こんな話って、あるだろうか。やはり原因は川上さんでなく、読み手のほうにあるのかしらん。