野球小説の奥深さ

白球残映

小山清『小さな町』*1みすず書房)に触れて、読みさしのまま感想が書けない本が今年は多いと嘆いた。読みさしどころか、読み終えているのに感想を書こうと思いつつ着手できずに時間が経ち、内容を忘れてしまった本が何冊かある。
これまでは、読んでもあまり面白いとは思わなかった本については、そのことを感想として書くのではなく、何も書かないことで感想にかえていたのだけれど、そういう理由でなく書けない本が出てくるとちょっと心苦しい。
ふつう読みながらどんな感想を書こうかと想を練り、読み終えてまもなく一気に書くというのがスタイルだったが、今年はいろいろな事情があって、読み終えてすぐパソコンに向かう習慣を確立できなかったし、ゆっくり文章を練る余裕がなかった。したがってせっかく読みながら考えていた感想の断片が、時間が経つにつれおぼろげになり、やがては砕け散ってしまうのだった。
まだ記憶が砕け散らないでおぼろげながら頭の隅に残っている本がある。いまのうちに感想の断片だけ書き残しておこう。その本は、赤瀬川隼さんの直木賞受賞短篇集『白球残映』*2(文春文庫)である。
まだ読んだ記憶が鮮明に残っていた頃(といっても読み終えたのは二週間ほど前にすぎない)、感想はこんな感じで書き出そうと思っていた。

“競馬は人生に似ている”とは、寺山修司が言った言葉だったろうか。人生の比喩で語ることができるスポーツはどれもが面白く、また一つの物語になりうる。野球もその一つだろう。
気取った書き方で、われながら恥ずかしい。でも赤瀬川さんの野球小説を読んでの率直な感想がこれだったのだから仕方がない。「生きる」とか「殺す」「死ぬ」とか、「盗む」といった言葉が人生の比喩といってしまうのは大げさに過ぎるけれど、やはり野球をやったり、観たりするときの一喜一憂は山あり谷ありの人生に似ている。
そんなことを考えて読んでいたら、本短篇集中もっとも長い「消えたエース」のなかに、登場人物がこんな会話を交わす場面に出くわした。
「春名さん、野球と人生は似ているとよくいうでしょ」
「ええ」
「わたしはそのいいかたより、野球と人間は似ているというのが好きです」
「………」
「その心はどちらもよく休みたがる。投球の間合いや攻守交替の間合いですよ」
「なるほど」
「そういうあいだは静かでいたい」(252頁)
この点サッカーは「休みたがる」というスポーツではないから、人間の比喩では語ることができないということになろうか。かつてバリバリの巨人ファンだった頃は、ライトスタンドの狂躁に身を投じ、同じチームを好きな人同士喜び合い悔しがるのが野球を観ることだと思っていたが、いまは違う。静かなスタンドでビールを呑みながらのんびり観る。実行できたことはほとんどないけれど、そんな野球の見方が好ましく思う。
同じ「消えたエース」にて、主人公のこんな考え方が示されている。とりもなおさず作者の考え方でもあるだろう。
野球そのものにいちばん接近でき、野球を愉しむのにとりあえずいちばん必要なのは、その間は身も心も閑人になることである。(208頁)
だから赤瀬川さんの野球小説に出てくる野球観戦者は、あまり客の入っていない地方球場でのオープン戦、しかも開幕が近づき主力級も出場しているような時期のオープン戦を好んで観ようとする。
死期の迫った野球好きの父にオープン戦を見せようとする息子たちの物語「春の挽歌」や、先の「消えたエース」を読むと重松清さんの作品を連想させられる。野球というものを媒介に描き出す親子の物語。べつに野球を出さずとも描ける世界だろうが、背景に野球の世界を置いたからこそ広がる深い感動。
すぐれた野球小説から与えられる感動ほど清々しいものはない。