SFを読む資格なし?

星を継ぐもの

瀬戸川猛資北村薫両氏がそろって絶賛するSF長篇、J・P・ホーガン『星を継ぐもの』*1(池央耿訳、創元SF文庫)を、今回の3泊4日の出張の「課題図書」に決めた。毎度ながら出張は読書時間の確保がむずかしかったものの、物語の面白さに引っぱられ、読み終えることができた。
この作品を知り、関心をもった最初は北村さんの『ミステリ十二か月』*2中央公論新社、→2004/10/28条)だった。ここで北村さんは「評判を聞いてわたしは、すぐ本屋さんに行きました。買って帰って、読みました。夢中になりました。本を閉じると同時に、人に話したくてたまらなくなりました」(42頁)と書いている。
北村さんより早く、瀬戸川さんが『夜明けの睡魔―海外ミステリの新しい波』*3(創元ライブラリ)のなかで、やはり「不可解な謎の提出、中断のサスペンス、論理による謎解きと結末の意外性。こういう種類の小説を、ぼくらは本格推理小説と呼んでいるのではあるまいか」(39頁)と誉めたたえている。順序が逆になったが、最近瀬戸川さんの本を読み(→3/12条)、やはり読まねばならぬと“謎物語好き”の心がうずいた。そこに、大学生協書籍部で本書が平積みされていたのに出くわしたからには、買わないわけにはゆかない。
さて、瀬戸川さん北村さんお二人は、この小説をSFとして以上に、「本格物・謎解き物」として高く評価する。最初に提示される不可解な謎が、登場人物によって論理的に解き明かされるという点である。
謎を解決不可能に思わせれば思わせるほど、論理的に解明されたときの爽快感が大きくなる。本作品の時間設定は2020年代、月面で宇宙服をまとった遺体が発見される。調べてみると、この遺体は生物学的には地球の人間とまったく変わらず、しかも5万年前のものであることがわかった。5万年前に月面に到達するほどの科学技術をもった人類が地球上に存在したとしても、その痕跡が地球上に残されていないのはおかしい。別の星からやってきたにせよ、人間と遺伝子的にも大差がない生物が別の星に存在することがありうるのか。遺体の遺留品には、地球上のどの言語にも該当しない文字が書き残されたメモが含まれており、その解読作業を進めるにしたがい、驚愕の事実が明らかになるとともに、謎もますます深まってゆく。…
こんな素晴らしくスケールの大きな謎が、主人公である原子物理学者のハント博士を中心に、生物学者言語学者らが議論を戦わせながら、二転三転しつつ明らかにされるときのスリルは最後まで読者を惹きつけて放さない。
たしかに、大きな謎が論理の力で解きほぐされていくという意味で、本格物好きを唸らせる傑作であることは認めたい。SF的に見ても、文庫版解説の鏡明さんが書いているように「センス・オブ・ワンダー」が横溢し、はげしくSFごころを揺さぶる。センス・オブ・ワンダーとは、結局ここまで書いてきた「大きな謎」にほかならず、こういう小説は大好きなのである。
ただし、私は瀬戸川さん北村さんが絶賛するほどの本格物の傑作かというと、「そうなのかなあ」と首をひねらざるをえない。大きな謎が論理的に解明されはするものの、決着をみるその落とし所がSFという土俵の上であることには変わらず、空想の域を出ないからだ。そういう解決であるならば、SFというかたちをとり空想力さえもっていれば落とし所は一つだけではないと思うのだ。
SFは嫌いではないけれど、センス・オブ・ワンダーが現実の私たちの思考の及ぶ範囲で解決されてこそ、私は驚きたいのであって、いかにセンス・オブ・ワンダーが論理的に解決されてゆく爽快感があっても、決着も空想上ということであれば、そこにちょっとした幻滅をおぼえる。
もとよりSF、この作品で言えば「近未来の2020年代」(作品発表は1977年)という舞台のなかでの話であるからには、そこに現実的解決を求めてはいけないはずだ。要はSFの話なのだから、そんなところに幻滅をおぼえたら身も蓋もないだろうということ。だからそこに違和感をもった私は、SFを楽しめはしても、SFごころを持ち合わせない人間であることを痛感した。
重箱の隅をつつくようで、この小説が好きだ、SFが好きだという人をますます怒らせてしまうかもしれないが、この作品中、学者たちの会議で登場人物が平気で煙草を吸っていることが気になった。1970年代においては、近い将来おおやけの場での喫煙が制限されるということはまったく想像に及ばなかったのだろう。こんなことを考えるのも、SF読み失格者ゆえなのか。