第65 成瀬映画を訪ねて

矢向駅

今年は映画監督成瀬巳喜男の生誕100年にあたる。現在世田谷文学館で「成瀬巳喜男展」が開催中であるほか、作品上映などの企画もあるという。またCS放送“日本映画専門チャンネル”では、全56作品を放映する予定とのこと。
小津安二郎生誕100年のときは現在の環境で乗り切ったが(小津映画を観たことがなかったから、まあ当たり前だ)、今回はさすがにそういうわけにはいかぬと、心がざわつきはじめている。第一に、“日本映画専門チャンネル”を見るため、ケーブルテレビに入らなければならない。次に、DVDレコーダーを用意しておきたい。物入りで悩ましい春である。
病気療養中のとある方(以下仮に甘木さんと呼ぶ)をお見舞いするため、ご自宅のある矢向(やこう)を訪れた。矢向の住所は横浜市鶴見区だが、川崎から南武線に乗って二つ目の駅であり、少し歩くとすぐ川崎市幸区)という場所に位置する町である。
と書きはしたものの、私はこのあたりにまったく土地勘がない。そもそも今回矢向に行くという段になって、南武線のいっぽうの終点が川崎であることを知った。それに、このあたりは南武線横須賀線がほぼ平行に走っていることも初めて知った。横須賀線は東京からずっと東海道本線と平行に走っているとばかり思っていたけれど、途中で別れ、このあたりでは東海道本線を底辺とする二等辺三角形の一辺を形成しているのである。よく考えれば、去年「のんき通り」を歩いたとき(→2004/11/28条)、横須賀線しか停まらない西大井駅で下車していることを思い出した。
さて、かくほども京浜間に土地勘のない私ではあるが、多少誇張して言えば、矢向という地名、いや、駅にはある種の憧れを抱いていた。この駅・地名を初めて知ったのが、成瀬監督の名作「めし」なのだ。原節子が大阪での上原謙との夫婦生活に疲れ、実家に戻る。その実家が矢向にある。実家は商店街のなかにあるとおぼしく、妹夫婦(杉葉子小林桂樹)が洋品店を営んでいる。
ディテールをすっかり忘れてしまっているが、矢向駅前の焼け野原のような風景(映画は1951年製作)と、原節子の旧友だった中北千枝子の生活やつれしたおもかげだけ、鮮烈に憶えている。もっとも原と中北が会ったのは職安であり、矢向でないかもしれない。とすれば焼け野原の風景を矢向駅前だとするのも記憶違いの可能性がある。こんなときの強い味方が川本三郎さんの著作。「映画の昭和雑貨店」シリーズを探すと、上の疑問は解決こそしないものの、次の一節が見つかった。

成瀬巳喜男監督『めし』(昭和26年)には、小林桂樹杉葉子の働きものの若夫婦が、夜、いっしょにそろばんを入れる印象的な場面がある。ふたりは、川崎市の矢向あたりの商店街で小さな洋品店をやっている。下着やワイシャツのささやかな商いだが、二人でまじめに働いている。(『続・映画の昭和雑貨店』小学館、25頁)
さらに近著『我もまた渚を枕』*1晶文社)のなかの鶴見歩き「ローカル鉄道に揺られ、川べりを歩く「鶴見」」は、鶴見を訪れた最後に矢向に向かうところで幕を閉じる。
国道駅から鶴見銀座という商店街を歩いて鶴見駅に出る。広場にとまっているバスを見ると「矢向駅」行きとある。南武線矢向駅に行くバスである。/矢向といえば、昭和二十六年に作られた林芙美子原作、成瀬巳喜男監督の『めし』に出てくる。/上原謙との夫婦仲が悪くなった原節子が、大阪の家から母親(杉村春子)のいる実家に帰る。その実家のあるところが矢向だった。/そうか、矢向は鶴見だったか。(39-40頁)
前の引用で川本さんは「川崎市の矢向あたり」と書いている。横浜という認識はなかったのかもしれない。次の引用の最後で、鶴見であるということに気づいたからだ。そういえば、矢向駅近くを歩いているとき、逆の鶴見駅行きバスに追い抜かれた。川本さんが矢向に着いてからのことを書いていないのは残念である。
何はともあれ、この映画のイメージが強く、矢向は一度訪れてみたかった場所なのだった。奇しくもその願望が、お見舞いという妙なかたちで実現した。甘木さんは終戦直後から矢向にお住まいとうかがい、ならばと「めし」の話題を出したところ、「よく知ってるねえ」と驚かれた。甘木さんも映画を観たことがあるとのこと。
さらに興味深かったのは、映画に映った50年以上前の矢向駅付近の雰囲気は、大きな変化をこうむらずそのまま濃く名残りをとどめているという話。駅舎の外観は小ぎれいであるものの、たぶん昔の建物に改修を加えただけのような感じであるし、改札口の雰囲気は、改札をくぐり地続きでプラットフォームに出るというスタイルがローカル線のひなびた駅のようだ。そのプラットフォームも、古びた鉄骨に屋根が乗った簡素な造りで、駅の外側から丸見えであり、離れて風景を見ていると「旅情」という言葉が浮かんできてしまう。やはりあの頃と変わらなかったのか。
開発をまぬがれ、なぜ変わらないのか。この点の話も面白い。矢向のあたりは操車場・車線区といった大規模な鉄道施設があり、敷設された線路も多く、駅(および前後の線路)を高架にしにくいので、やむなく手を加えられずそのままになっているという。50年以上もの間変わらないという理由に、こんな条件があったとは。意外だった。
駅を出てすぐの踏切の両側に伸びる道路が商店街になっている。休日の午前中ということもあり、賑やかさは感じない。休日でなくとも、たぶんそれほどの活気がある商店街ではないような気がする。商店街を貫く道路が二車線で、しかも交通量が結構あるからだ。自動車に遮られ、歩行者が道路の両側を行き来する自由さが奪われてしまっている。見るかぎりでは残念ながら古本屋もない。
少し歩くと川崎市で、そのあたりに「天然温泉」と書かれた煙突が突き出している。このあたり温泉が出るのだろうか。古びた商店のファサードが、別の建物であるにもかかわらず茶色のタイルで統一された一角があり、珍しく感じた。洋品店を見つけると、ついそこに小林桂樹の姿を探してしまい、苦笑する。
上の川本さんの文章にあるように、「めし」の原作は林芙美子。彼女の遺作で、急逝により中絶している。甘木さんから、原作からすでに矢向になっているということを教えていただいた。帰ってから確認する。
三千代が、矢向駅へ降りたのは、九時ごろであった。/雨は小降りになっている。/川崎で、桜木町行きの電車を、南武線に乗り替えて、二つ目が、矢向の駅である。駅から、家までは、ものの五分もかからないところだった。/新開地の、溝っ川に沿った、商店街で、さびしい町並ではあったが、割合い住みいいところである。/東京にも、横浜にも近く、町の周囲には、工場が多かったので、終戦後、急速に、商店街がひらけた。(新潮文庫『めし』*2184頁)
帰りは、矢向駅の駅舎と、駅のたたずまいをもう一度目に焼きつけてから、川崎駅まで歩いた。駅二つ分だが、それほどの距離を感じなかった。