北村薫さんに直木賞を

1950年のバックトス

直木賞候補作のなかに北村薫さんの作品を見つけるたび、「今度こそ」と期待し、発表の日にはいつもドキドキするのだが、受賞者が発表されると落胆してしまう。
このところそういうことが続いているなあと、北村さんの候補歴を調べてみた*1。下記のように、このあいだの第137回まで、ノミネートされること5回にのぼる(括弧内は当該期の受賞者)。

  • 第114回(1995年下半期)『スキップ』(小池真理子『恋』)
  • 第118回(1997年下半期)『ターン』(受賞作なし)
  • 第131回(2004年上半期)『語り女たち』(奥田英朗空中ブランコ』)
  • 第136回(2006年下半期)『ひとがた流し』(受賞作なし)
  • 第137回(2007年上半期)『玻璃の天』(松井今朝子『吉原手引草』)

これだけ候補になって受賞まで届かない人も珍しいのではあるまいか。しかも北村さんの場合、十数年にわたっている。これだけの期間、直木賞候補作級の作品を発表し続けている、つまり第一線で活躍している作家もそういないだろう。
北村さんの場合、直木賞など受賞しなくとも十分作家としての名声を確立している人である。「そんなものいらない」と憤るファンも多かろう。でも逆に、わたしのように、せっかく候補になったのならぜひ受賞して欲しいと思う人も多いはずだ。
とくに個人的には、直木賞芥川賞受賞をきっかけに(あるいは受賞後名が売れてから)その人の作品を読みはじめ、好きになるという人は多くても(たとえば堀江敏幸さんや重松清さん)、受賞以前からのファンで、受賞作も候補になる以前に読んでいるという作家はそうそういないから、北村さんが受賞してくれれば、自分の本読み歴にも自慢の種がひとつ増えようというものだ。
直木賞を獲るためには作品がなければならない。次の期に向けて、というべきか、北村さんの新刊作品集が出た。『1950年のバックトス*2(新潮社)がそれである。
本書は書名になった短篇をはじめ23篇が収められた短篇集である。短篇というより、掌編というべきかもしれない。幻想小説風、ホラー小説風作品から、お得意の“日常の謎”を扱ったミステリ風作品、北村さんが好きな落語の口演筆記を借りたスタイル、これまた得意な(?)駄洒落をテーマにした小説、喜劇風なコントなど、色とりどり、いずれも匠気あふれる変幻自在な北村ワールドに酔いしれた。
冒頭の「百物語」などは、ストーリーテラーの本領発揮の怖い小説で、こんなサスペンスに満ちゾクゾクさせられ、あとの22篇を読むのが楽しみになるような作品を読むと、逆に権威ある直木賞とは無縁かもしれないと不安をおぼえてしまうほど。サスペンスフルな作品にはほかに「包丁」がある。
わたしが好きなのは、“日常の謎”的な、あるいは北村さんの『詩歌の待ち伏せ』の系譜をも引くような、言葉の謎をテーマにした「凱旋」「かるかや」の2篇だ。
表題作「1950年のバックトス」や「洒落小町」「林檎の香」「ほたてステーキと鰻」は、中年から老年の女性を主人公にした作品で、これは『ひとがた流し』の系統に属すると言えるだろう。さすがに表題作は書名に採られただけあって、意外性があって最後には感動する作品となっている。
本書の帯には「男と女、友と友、親と子を、人と人を繋ぐ人生の一瞬」とあって、いかにも賞を意識したような惹句となっている。だからこそ本書を読む前は「この本で…」と期待してしまったのだが、いざ読んでみると、いつもの北村さんの作品同様遊び心に満ちて楽しい小説ばかりだから、このような粒ぞろいの掌編集と直木賞の相性はよくないかもなあと、変な気を回してしまったのである。
他方で帯には「謎に満ちた心の軌跡をこまやかに辿る短篇集」ともある。たしかに北村さんがこの本のなかで、さまざまなスタイルを使って書きたかったのは、たんなる幻想小説、ホラー小説、推理小説、青春小説などでなく、人間の心の動きの謎とも言うべき局面だったのかもしれないと気づかされた。
その意味では、ひとり暮らしをはじめた孫と祖父の交流「ふっくらと」や、一人娘が結婚して二人きりになった老年夫婦の温泉旅行での一齣「石段・大きな木の下で」だけでなく、「1950年のバックトス」も「林檎の香」も謎めいた人間の心の動き方をテーマにしているし、冷ややかな余韻を残す「手を冷やす」や、危篤状態に陥った母が繰り返し口にした謎の言葉の意味を、離れて暮らす娘が問いただす「小正月」も、大きく言ってそのようなテーマを共有している。
というわけで、何とか本書で次の直木賞を、と期待して見守りたい。