トリックスターの馬鹿囃子

ベースボールと陸蒸気

今月の小学館文庫新刊の一冊、鈴木康允・酒井堅次『ベースボールと陸蒸気』*1は、副題に「日本で初めてカーブを投げた男・平岡熈」とあって、「おやっ」と思った。この平岡熈という名前、記憶の片隅にひっかかっていたからだ。
記憶の糸をたどってみると、去年山口昌男さんの『経営者の精神史―近代日本を築いた破天荒な実業家たち』*2ダイヤモンド社、→2004/5/14条)を読んだとき、取り上げられた人物たちのなかでもっとも強く印象に刻まれたのが平岡だったのだ。そのとき書いた拙文を読み返すと、同書に登場する「経営者」たちの代表を平岡にさせてもけっして間違いではないような人物であることがわかる。
ことほどさように平岡は、「トリックスター的」、典型的なホモ・ルーデンスで、お大尽と精力的な起業家という二つの相貌をあわせもっていた明治の大人物であった。『ベースボールと陸蒸気』は、祖父が平岡から野球を教わったという鈴木康允さんが調査を行ない、共著者酒井さんが部分的に肉付けして叙述を行なった評伝である。鈴木さんは、近代史の表面から隠れた畸人の事績を発掘する「人物考古学」を提唱されているらしく、その手はじめが多少なりとも縁がある平岡に対する興味だった。
明治維新直後の、いわゆる「岩倉使節団」の渡米と時を同じくして、平岡は鉄道技術を学ぶため私費でアメリカに渡る。家は徳川御三卿田安家の家老職であり、洋行には強力な後ろ盾となった。一橋家に仕えた澁澤栄一との縁も、この徳川御三卿旧臣という点にあった。
国家的・官僚的な政治・行政を学ぶのではなく、平岡は機関車製造工場の一工員として技術を身につけながらのたたき上げで、帰国後渡米中に知己を得た工部大臣伊藤博文の推挽で工部省の上級技師として官途についた。しかしながら三十代で官を辞し、日本独自の機関車製造工場の経営者として第二の人生を歩む。
ここからが平岡の本領発揮といったところで、在米中に身につけた野球を日本に伝え、「野球」の名付け親という説すらある正岡子規も彼から野球を教わったという。当時の野球は上手投げが禁止されており、平岡がアメリカで習得したカーブを投げたといっても、下手投げからのものだったらしい。学生や上流紳士に野球を広め、草野球チーム「新橋倶楽部」を設立している。
起業家であり、野球をわが国にもたらした功績のある人物ということ以上に興味深いのは、彼と邦楽音曲との関わりである。すでに山口さんの本の感想を書いたとき、彼の母親が一中節の名手であったことを紹介したが、彼自身も音曲をよくし、現在では市川宗家が「助六」を演じるさい後ろで演奏することで知られる河東節の大パトロンであり、また、自身でも「東明節」という邦楽の一派を立て、のち歌舞伎座における五代目歌右衛門の舞踊劇にこの東明節が使われたというほど大正期には流行ったらしい。彼と邦楽の関係は、芸者たちと三味線で遊ぶという程度ではなかったのである。
しかも「馬鹿囃子」の天才でもあり、その正調を後世に伝えることを願っていたという。馬鹿囃子といえば、獅子文六の長篇『自由学校』を思い出す。私は本書を読むまでこれが「正調」などとはおよそ無縁の、太鼓を叩いて笛をただピーヒョロとやるだけの演奏だとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。松平不昧公に源をもつ「出羽様囃子」という格式のあるものだったそうだ。結局平岡没後は馬鹿囃子の継承者がおらず、途絶えてしまったというから残念である。
いたずら好きだったり、江戸以来の袋物の一大コレクションを有していたり(関東大震災で烏有に帰した)と、まだまだ彼には語るべきトリックスター的要素は多い。文庫版解説が中野翠さんで、いかにも中野さんが好きそうな人物だなとうなずいてしまう。