成瀬映画三昧に向けて

成瀬巳喜男の設計

世田谷文学館で開催中の「映画監督・成瀬巳喜男展」を見てきた(4/10まで、一般300円)。成瀬家旧蔵の撮影台本や成瀬監督愛用の品々、映画スチール、美術監督中古智さんによる映画のセット図面などを中心とした興味深い展示だった。
初期から最後の作品「乱れ雲」まで、成瀬監督の発言をキャプションとして抜き出した各作品の説明札を見ながら、猛烈に成瀬映画を見たくなる。ついにケーブルテレビに入り、HDD/DVDレコーダーを購入することになったが、流される作品のほとんどをDVDに録画しようと心に誓った。
成瀬監督による自作解説は、『キネマ旬報』に載ったインタビューをこまぎれにして引用したもので、当然それ以後に制作された作品について語られていない。成瀬監督は寡黙な人で、自作ですら黙して語らずという状態だったらしく、晩年の作品については、監督自身のコメントはほとんど登場してこない。
私はこの成瀬監督の出すぎず寡黙というキャラクターに、言い知れぬ魅力を感じる。かくありたいという理想的人間像だ。映画評論家佐藤忠男さんは、成瀬監督の姿勢について、こんなことを書いている。

監督としての彼は、ロケーションが嫌いで、なるべくセットで撮影しようとした。どうしてもロケーション撮影をしなければならない場合は、あまり人通りのない場所と時間を選ぶようにした。(平凡社ライブラリー『映画の中の東京』49-50頁)
ロケとなると、通行人が多く気が散りやすいうえに、思い通りにいかず偶然的なことに左右されやすいので、監督には大きな統率力が要請される。ところが成瀬は大声でどなるようなこともできないおとなしい人なので、そういうことをやらずにすむセット撮影を好んだという。
セットなら、準備万端、整っている中で、スタッフも俳優も監督の呼吸をうかがいながら仕事を進める。そこにいるみんなから信頼されているかぎり、監督はあえて大声をはりあげるまでもなく、静かにひっそりと指示を与えて撮影を進めることができる。(同上書、50頁)
だから成瀬映画においては、セット(美術)というものが重要な要素となる。中古智さんは美術監督として成瀬を支えた人で、今回の展示では、ロケハンの写真やセットの設計図、中古さんの証言などが大きな柱となっている。そればかりか、代表作「浮雲」で身をやつした高峰秀子(ゆき子)が住んだ陋屋が実物大で再現されており、展示の目玉となっている。
私の印象に残ったのも、このロケハンにかかわる展示物だった。ひとつは「放浪記」のロケハンで、東大正門前に現存する万定フルーツパーラーの建物を撮った写真。こんなモダンなファサードだったかしらんと驚いた。今ではシャッターが閉ざされたままになっている本郷通りに面した角の建物も店舗(雑貨屋?)として開いており、これまた造りがモダン。この写真は貴重だ。
いまひとつは「浮雲」で、屋久島に渡ったものの病の床に伏した高峰秀子の部屋(上の再現された部屋とは違う)の直接のモデルが、芦花公園にある徳富蘆花が住んだ恒春園の建物であること。両開きの窓の雰囲気がそのまま模されている。芦花公園駅近くにある世田谷文学館にぴったりのエピソードではないか。
世田谷文学館を訪れるのは、寺山修司展・山田風太郎展に次ぎ三度目だろうか。今回はそのまま京王線芦花公園駅に戻るのではなく、どこかに寄り道したかった。館近くに成城学園駅前行きのバス停(小田急バス)があり、本数こそ少ないけれど、さいわい展示をゆっくりひとめぐりすればちょうどの便があった。
成城はまだ訪れたことのない町だ。成瀬巳喜男も、常設展示で取り上げられていた横溝正史も成城に住んでいた。小田急線に乗れば電車の乗り替えもスムーズに帰ることができるので、寄り道の先は成城に決めた。
成城学園駅まで行かず、手前のバス停で降りてぶらぶら歩くことにする。成城と言えば高級住宅地、芸能人の家も多い。道路は碁盤目状に整然と並び、生け垣の家が多く歩いていても拒絶感を感じないのがいい。ところどころ道ばたに植えられている並木はたぶん桜なのだろう。もう少しすればきっときれいな町並になるに違いない。ただし住むという視点(夢)で考えれば、人や車が多めで、私は芦花公園周辺の閑静さに軍配を上げる。
さて、駅の方角はわかっているので、そちらに向かいつつ成城の住宅地の道を適当に歩いているうち、嬉しいことに古本屋の前を通りかかった。学術書から文芸書・文庫本まで揃えたいかにも古本屋らしいお店で、店名をキヌタ文庫という。入ってすぐ右手の棚に、大岡昇平さんの『成城だより』元版があるところなど、さすがである。
帰宅後、野村宏平『ミステリーファンのための古書店ガイド』*1光文社文庫)を繰ると、「濃い本をそろえた昔からの名店」(95頁)ときちんと紹介されてある。同書に紹介されている成城の古本屋はこれ一軒のみ。適当に歩きながらその古本屋にめでたく出くわすのだから、古本屋に対する嗅覚というか勘はわれながら鋭いものだと嬉しくなる。散歩の途中でまったく予期せずこういう古本屋を見つけるというのは、散歩好き・古本好きにとって理想的だ。
しかも、直前に見た「成瀬展」で重要参考資料として紹介されていた、中古智・蓮實重彦成瀬巳喜男の設計―美術監督は回想する』*2筑摩書房)があるではないか。この出会いは、私にこの本を買えという天啓にほかなるまい。これからの“成瀬映画三昧”の日々に向け予習をしようと、いそいそと購入した。