坪内本中毒

まぼろしの大阪

坪内祐三さんの新著まぼろしの大阪』*1(ぴあ)を読み終えた。
本書には、『ぴあ関西版』に足かけ3年連載されたコラム(現在も連載中とのこと)に加え、谷沢永一さん森村泰昌さんご両人と坪内さんの対談2本が収録されている。東京生まれの東京育ちで、大阪が気になりながらもあまり足を運んだことがないという坪内さんが、大阪の出版文化や食文化、町の雰囲気などを、実際歩いたり本を読んだりしながら次第に意識し始めるという感覚が、読みながら追体験できる。坪内さん言うところの「ドライブ感」ある本だった。
坪内さんのこの手の本には魔力があって困る。惑わされまいと思いながら読んでいても、いつのまにか引きずり込まれている。一回3頁ほどの短い文章が続いているということもあり、一回分を読むと「はい、次」となり、ここで止そうと思っても止まらなくなる。つまりドライブ感のある本というわけだ。
この本の基本的な姿勢は、森村泰昌さんとの対談のなかで浮き彫りになっている。
たこ焼きの話題で、森村さんが、大阪ではたこ焼きなど自慢するような食べ物ではなかったのだけれど、東京で「大阪の味」のように喧伝されるものだから、大阪人はそのイメージを逆輸入して自分たちのアイデンティティにしてしまったと発言したのを、坪内さんは以下のように受ける。

東京の中で、大阪に対する、オリエンタリズムの視線があるんですけどね。そのオリエンタリズムの視点に大阪の人が乗っかっちゃったりしてるところがあって。実際の大阪からイメージの大阪がずれていく。このコラムの中で、僕は本当の大阪を探しているんですけどね。だけど、「本当の」っていうのがどういうことかっていうと、“これが本当です”って言った瞬間に本当じゃなくなっちゃうんですよね。ある空気だとか、ある瞬間の像でしか、表現できないものがある。(191-92頁)
東京の人間として、坪内さんはこうした「東京経由の大阪文化」という膜を丁寧に取り払い、大阪なるものの本質に飛び込もうとしたのが本書のポイントだろう。一般的な東京人は「東京経由の大阪文化」的視点で大阪を見る。たこ焼き、吉本新喜劇阪神タイガースなどなど。しかしこれらは東京人によって作られ、大阪人が逆にそれを自分たちに当てはめて肥大化させた虚構の大阪像にすぎない。その膜を一枚一枚剥がした先に、いかなる「まぼろしの大阪」が見えてくるのか。そんな本だ。
だからと言ってこれを真似しようと思っても簡単にはいかない。東京という都市に対する繊細な自己認識がそなわっていなければ無理である。たとえば大阪松竹座で歌舞伎を観たときの感想(「生まれて初めて関西で歌舞伎を観た」)でのこんな指摘にうなってしまった。
東京の歌舞伎座を私が愛しているのは、ロビーのあちこちに妙な闇溜りのようなコーナーが存在していることだ。“オペラ座の怪人”ならぬ“歌舞伎座の怪人”がひそんでいそうな空間が。
「たしかにそうだ」と深くうなずくものの、これまで自分が「闇溜り」をはっきり意識していたわけではない。言われてみるとそんな空間があって、たしかに微妙に気になっていたのである。ちなみに松竹座には「闇溜り」的空間がなく整然としすぎているのが寂しいとのこと。
このようなバランス感覚は、甲子園球場を居心地の良い場所と感じたという一文(「甲子園球場の居心地の良さについて」)でも存分に発揮されている。東京ドームや神宮球場が比較に出され、「なるほど」と思った。
編集工房ノア」系の文学者である杉山平一とか、これまで見向きもしなかった新潮文庫の『大阪学』とか、仏文学者生島遼一のエッセイ集やら、詩人小野十三郎織田作之助、はては雑本漁りの魅力まで、坪内さんの本は中毒性があって、困ってしまう。
ビニールカバーという装幀はいかにも版元「ぴあ」から出されたガイドブックのようで、こうした造本を選ぶ坪内さんのセンスも憎いほど本好き魂を刺激する。