現代史家坪内祐三の方法

同時代も歴史である 一九七九年問題

最近坪内祐三さんの著作に対する関心が以前ほど強くなくなってきているのは、たんに坪内さんの著作の刊行ペースがスピードダウンしたゆえなのか、わたし自身の執着心が弱くなってしまったからなのか。最近の本で言えば、『「別れる理由」が気になって』(講談社)は買っていないし、『極私的東京名所案内』*1(彷徨舎)は昨年秋の「地下室の古書展vol.6」のおり買ったまま(→2005/10/18条)、積ん読になっている。もっとも新しい坪内本の感想は、『古本的』*2毎日新聞社、→2005/5/31条)のものだ。もう一年以上も経っている。
別にそれを意識したわけではないが、もっとも新しい著書である『同時代も歴史である 一九七九年問題』*3(文春新書)を読もうという気になった。新書という手軽な媒体なので、とりあえず買いはしたものの、すぐ読むつもりではなかったのだけれど、突如読む気になったのは、保阪正康さんの『松本清張の昭和史』*4平凡社新書)を読んだためだ。
なぜ『松本清張の昭和史』から『同時代も歴史である 一九七九年問題』へと読書の流れが向いたのか。『松本清張の昭和史』の感想でも述べたが、保阪さんは松本清張の史観について、同時代意識、その時代の空気を吸っていたという意識に立脚し、そのうえでその時代を「歴史」として相対化したと論じており、ちょうど坪内さんの新刊の「同時代も歴史である」というタイトルがその点と共鳴しているように感じたからである。
坪内さんによる現代史への関心は、すでに『一九七二―「はじまり」のおわりと「おわり」のはじまり』*5文藝春秋、→2003/5/7条)で展開されている。坪内さんは自らを「歴史家」と称したりもしている。
そのような関心から『同時代も歴史である 一九七九年問題』を読むと、まさに坪内さんは同時代意識というものを大事にしつつ、それを「歴史」として相対化しようと格闘していることがわかる。『一九七二』と同様、本書においても、大きな歴史の流れのなかでの1972年、もしくは1979年の位置づけが明確に定まっていないきらいはあるものの、これはそれらの年が現在からさほど隔たっていない近過去に属するゆえ、ある意味仕方のないことだろう。
また、1979年問題と書名に掲げ、個別に論じられている対象が連環的につながる連作的長篇評論を意図したと「「まえがき」に代えて」にはあるけれども、わたしにとってはこれらを一貫して理解することができなかった。ひとえに読者としての能力不足である。
一貫しているのは論じられる対象でも時期でもなく、むしろその方法論であると言っていいかもしれない。つまり同時代意識を丁寧に記録するという精神である。それまでわたしは坪内さんの本を読んで、本を買った店や読んだ時間、場所、そうした記憶を「メタデータ」として本の内容とともに憶えておく、むしろ内容よりそちらの記憶のほうがはっきりしているのではないかと思えるほど、大事にされていることに注目していた(→2005/4/9条)。
論じられている内容が自分にとってまったく縁のないようなものがあるにもかかわらず、読み通すことができたのは、メタデータ的記述の面白さとその裏に潜む意図のようなものを感じ取ったからにほかならない。
たとえば杉野要吉『ある批評家の肖像』を東京堂書店でパラパラと立ち読みしただとか(44頁)、グリール・マーカスの新刊をアマゾン・コムで注文し、今年(2003年)の一月初めに現物が届いたとか(151頁)、『ニューヨーカー』を毎週定期購読していること(153頁)、『ヴァーチャル・ウォー』を「渋谷の大型新刊書店の新刊コーナーで」見つけたものの、そのとき買い控えため入手に苦労し、結局東京堂書店で購入したこと(198-202頁)、同じ著者の本が「渋谷や神保町のどの大型書店を探しても見つけることができず」、結局インターネット書店(アマゾン)で購入したこと(202頁)などなど、関心がない人にとってはどうでもいい情報である。
しかしこれを坪内さんは執拗に細かく書き残してゆく。2006年に生きる一人の批評家・現代史家が、これらの書物をどのようなプロセスで知り、入手したのか、それらの情報を著書のなかに書き残すことで、坪内さんは同時代意識を記録し、また、自らの著書を後世のための資料たらしめんとしているような気がしてきたのだ。
こうした意識を「意識する」ことについて、最終章の「一九七九年春、その時に「歴史」は動いていた」のなかで、小林秀雄河上徹太郎の対談を、それが収められた小林の対談集に拠るのではなく、初出誌の『文學界』1979年1月号を手もとに残しておくことにこだわったことについて、次のように述べている。

 けれど私は、この対談を初出誌で保存しておきたかったのである。
 それは私のコレクター的気質によるものではない。私の中の時間感覚や歴史認識の一つの指標として残しておきたかったのである。(237頁、太字は原文傍点)
そしてその雑誌に掲載された対談を読んだ思い出について、「私は、大学の教室内で、シェイクスピアの『ハムレット』についての演習授業(いや第二外国語のフランス語の授業だったかもしれない)の時に読みふけった」と、記憶を再現しようとする。
近代的な学問としての歴史学を身につけたわたしたちの特権は、現代史を叙述するうえでその時代の空気を吸ったという同時代意識を無意識にやりすごすのではなく、意識的に記述することでそれを相対化するという視点を獲得したことである。松本清張も、坪内祐三さんも、こうした視点を高度に意識化した現代史家として注目すべきなのだろう。