複雑なる東京・大阪対立

サイカクがやって来た

いわゆる「山藤挿絵本」にのめり込んでから、そろそろ一年になる。思えば昨年の年末帰省したとき、吉行淳之介『贋食物誌』(新潮文庫)と野坂昭如『エロトピア1・2』(文春文庫)を手に入れたのがきっかけだった。
年が明け今年に入り、『贋食物誌』や先に読んでいた山口瞳『酒呑みの自己弁護』と同じく『夕刊フジ』に連載されていた山藤挿絵連載エッセイ本の蒐集に乗り出し、そこから山藤挿絵以外の夕刊フジ連載エッセイ本にも関心が広がった。西大島のたなべ書店に文庫本を探しにいったのも寒い季節だったことを思い出す。まだ一年も経っていないのに、懐かしさすらおぼえる。
そのとき勢いに乗じて「山藤章二強化年間宣言」をしたわけだが(→1/9条)、そのいちおうの中間報告は後日(年内中)行なうことを約束して、今回はしばらく読むのが途絶えていた山藤挿絵夕刊フジ連載エッセイについて書くことにする。発表された時間順に読むことにしているので、今回読んだのは藤本義一さんの『サイカクがやって来た』*1新潮文庫)である。
本書は、井原西鶴の著作(『日本永代蔵』『好色一代男』『好色一代女』など)から一節を引用しつつ、その内容に照応する現代の社会風俗事情を批評したものとなっている。結果的には、西鶴の著作を通底している「色」と「欲」というテーマが現代にもそのまま適用可能であることを明らかにしたかっこうだ。
本書のなかでも飛び抜けて面白く、スリリングなのは、西鶴の江戸大阪比較論を援用して、大阪人の立場から東京の人間、文化を皮肉っている部分である。序盤の11回「東京人」から20回「ゲイの東西」あたりまで、それは続いている。
何が面白いかと言えば、これはたんに大阪人藤本義一さんによる東京批判にとどまるものではなく、挿絵の山藤章二さんが東京人であることに由来するからだ。東京批判の文章に、これに対する反批判の挿絵が添えられているので、一篇で批判・反批判の応酬が愉しめる。
文章を見て挿絵を描くという順番からすれば、挿絵が断然優位だろう。文章担当としては、挿絵によって加えられたカウンターに再反撃を試みたいところだが、藤本さんも巧妙なるかな、山藤さんの挿絵に対する直接的な反応を示すことなく、それをさらりとかわしつつ淡々と東京大阪比較論(東京批判)を展開するあたり、手練れと言うべきか。
二人の間に火花がバチバチと散ったのは、「イキ」なる一文にて、藤本さんが東京人が重んじる「粋」の精神について、「どうもタテマエだけの東京の人々は、イキというカッコヨサだけで、随分損をなさっているようだ。(…)イキで生きて死ぬ間際にホゾを噛んで、なにがイキだ」(49頁)と痛烈に皮肉ったときである。
山藤さんはこれに応じ、『山口瞳幇間対談』における山口瞳吉行淳之介対談の一節をもってきて、二人のイラストを描く。このなかでの二人の発言をそのまま引用する。

吉行:大金持ちのエピソードを聞いているとね、まことに泥くさい話しか出てこない。芸者を裸にして、池へもぐらして金くわえさすとかさ、ろくなのないんだよね。これは金を儲ける資質の人間(大阪人)ていうのは、その種のアイデアが出せない頭の按配なのかね。粋じゃないでしょ、これは。
山口:粋じゃない。住友、三菱商事のたぐいだね。
この山藤さんのイラスト、まるで藤本さんに喧嘩を売っているようで、読みながら「おおっ」と一人盛り上がった。ところが複雑なのは、生粋の東京人である山藤さんは、大の阪神タイガースファン(つまり藤本さんと同じ)であるということ。これはどのように説明できるのか。
前記「イキ」で火花が散ったあとも、数篇にわたり、ひとしきり藤本さんによる東京人批判が展開される。その流れを汲む「東西球場風景」では、東京と大阪の野球場におけるヤジや競馬場における怒号についてあれこれと例示したうえで、「東京人は他人の目を必要以上に感じるから、自分の欲望を抑えているようである」と結論づけられる。
ここに山藤さんは、自分がタイガースファンであることの理由を述べたイラストを添えている。これも文章をそのまま引用しよう。
東京人の僕がタイガースを好きな理由は、チームカラーが粋なところにある。/「なりふり構わず」とか「エゲツなく」といった大阪的なところが全くなく、反対に極めて江戸風に、「あっさり」「さっぱり」であり、「どたん場ではゆずるひとのよさ」と「トドメを刺さないやさしさ」さえ持っている。勝ちさえすれば、という野暮な人はよそのチームへどうぞ!!(58頁)
これに対する藤本さんのコメントがないのが残念だけれど、では大阪人としてタイガースが好きな理由はどのようなものになるのだろう。やはり阪神タイガースという存在は、とてつもなく大きな比較文化的問題をはらんでいるようである。