追憶の東京風俗詩

東京恋慕帖

先日、種村季弘『東京百話 天の巻』*1ちくま文庫、→9/30条)を読んで「あっ」と驚いた。種村さんによる編者あとがき「野暮の効用」のなかに、こんな編集方針が述べられていたからだ。

野暮でいこう、ときまった。いまさら知ったかぶりを気取ってもさまにならない、というのがまずある。それに江戸東京を相手取った都市案内といえば、寺門静軒『江戸繁昌記』から正岡容『東京恋慕帖』まで、成島柳北柳橋新誌』から高見順『東橋新誌』にいたるまで、すでに枚挙にいとまがない名篇が目白押しに並んでいる。
正岡容の『東京恋慕帖』はたしか来月ちくま学芸文庫に入るのではなかったか。それでなくとも食指がそそられる書名であるのに、種村さんのお墨付きまであるとなれば間違いがない。これをきっかけに、種村さんは正岡容についてほかにも何か書いていなかったっけとおぼろげな記憶が浮かび上がってきた。さっそく調べてみると、『書物漫遊記』*2ちくま文庫)のなかに見つかった。『正岡容集覧』を中心に据えた「逃げた浅草」という一篇である。
ここでも『東京恋慕帖』が何度か登場する。種村さんは正岡の仕事を次のように高く評価した。
開化以後の東京百年は、要するに大きな三つの断層を通ってきたのである。大家たちはその一つに執することによって大家となったが、正岡はそのいずれをも書いた。そのために亭々たる大樹の趣きをそなえたモニュメンタルな大作を書く機会こそ逸したが、時代のこまやかな気息が肌に感じられる程の、微細な筆触をこめた銅版風俗画の逸作を遺した。(148頁)
読みながらますます文庫の発売日が待ち遠しくなった。そして先日とうとうちくま学芸文庫『東京恋慕帖』*3が発売されたので飛びつくように購い、読みはじめた*4
目次にならぶ「大正東京錦絵」「東京万花鏡」「下町歳時記」「浅草燈籠」「巣鴨菊」「滝野川貧寒」「根津遊草」「山の手歳時記」「下谷練塀小路」「寄席風流」という字面を眺めただけでもゾクゾクしてくるが、中身もまた、大正時代の東京のたたずまいを抒情豊かに懐旧するもので、期待に違わぬ面白さ。
ひたすら大正の東京をべったりと「恋慕」しているのだけれど、読んでいて不思議に胃もたれしない。知ったかぶりの半可通を気取っていないということなのかしらんと思っていたら、巻末に収録されている弟子3人(桂米朝大西信行小沢昭一)の鼎談を読んで、この印象はさほど的を外していないことがわかった。正岡は、あれだけ江戸文化に傾斜していたにもかかわらず、浪花節のような「ドサ芸」をも許容する幅の広さがあったというのだ。つまり生粋の江戸のものでなければ受け入れない、そんな狭量な人間ではなかったということ。
本書を読んで個人的に「開眼」したのは、川柳の面白さだった。川柳自体は、田辺聖子さんの著作を通して、岸本水府に代表される上方川柳へ関心が芽ばえつつあったけれど、江戸―東京の川柳もまた素晴らしい。都市東京の姿が詩情あふれる短詩に閉じこめられている。とりわけ師と仰いだ阪井久良伎の句を中心に引用しながら大正の東京を追慕した「大正東京錦絵」がいい。この一篇の末尾では、関東大震災直後に編まれ、震災風景を詠んだ川柳の小冊子『から怒』からたくさんの川柳が紹介されており、ルポルタージュとは違った意味で圧巻である。
正岡は自身でも俳句・川柳を詠んでおり、こちらも捨てがたい。「東京万花鏡」から、不忍池、田甫となる」という前書の付いた二句。震災でなく戦災直後に詠まれたようだ。
田 植 唄 台 湾 館 の あ つ た と こ
弁 天 を 苗 代 水 の 手 で 拝 み
大正の東京は正岡にとってひたすら懐かしく、懐かしさを感じる口実はありきたりのものばかりではなかった。「旧東京と蝙蝠」という一篇では、こんなふうに蝙蝠が懐かしさの対象となる。
蝙蝠もまた旧東京文化の灯かげに生育したものにとつては、何にも換へがたくなつかしい少年の日の象徴である、記念品である。同性愛であるとさへ云へよう。全く私たちもしくは以前の年齢の人たちにとつては、常に宵々の蝙蝠の群と共に、青春の哀歓をことごとく経験して来たのだつた。(88頁)
蝙蝠を入口として少年時代をノスタルジックに追憶する。「青春の哀歓」が蝙蝠の群とともに思い出される。一読あっけにとられたけれども、よくよく考えれば、わが中学時代、外で部活動をしているうちにあたりはいつしか黄昏どき、薄暗くなった空には蝙蝠が飛び交っていたような気がする。ああ懐かしくなってきた。蝙蝠をノスタルジックにとらえる正岡の感性に共感をおぼえずにはいられない。

*1:ISBN:4480021019

*2:ISBN:4480020489

*3:ISBN:4480088806

*4:なお、坂崎重盛『東京遊覧記』(晶文社ISBN:4794965230)にも本書が取り上げられている。