なつかしの森村泰昌

時を駆ける美術

森村泰昌さんの文庫新刊『時を駆ける美術―芸術家Mの空想ギャラリー』*1(知恵の森文庫)を読み終えた。
本書は森村さんの作品集というものではなく、森村さんが古今東西の芸術作品(多くは絵画、建築物や仏像などもある)を取り上げ、その見方・楽しみ方を綴るという内容で、文庫オリジナルである。いま森村さんの作品集ではないと書いたが、自作もこのなかで取り上げられている。たとえばロセッティやフリーダ・カーロ作品に扮した作品、ブリジット・バルドーに扮したセルフ・ポートレイトなどがそれだ。
森村泰昌と言えば、なぜかなつかしさを感じる。というのも、東京に移り住んでまだまもないころ、東京都現代美術館で開催された森村作品の展覧会「森村泰昌[空装美術館]絵画になった私」を観に行ったことを思い出すからだ。
いま調べてみると開催期間は1998年4月25日〜6月7日とある。この期間のいつ頃観に来たかは忘れてしまったけれど、わたしが東京に来たのは同年4月だから、本当に直後と言っていい。
まだ東京という大都市の右も左もわからなかった頃、妻と二人で地下鉄を乗り継ぎ、都営新宿線の菊川で下車、そのまま三ツ目通り(これは後付けの知識)を南下し木場公園の北端にある美術館にようやくたどりついた。途中バーミヤンで食事したことまで憶えている。
美術館の手前に同潤会清砂通アパートがまだあって、「これがあの…」と感動したことも記憶に強い。よく考えてみると、実物を初めて見た同潤会アパートは、この清砂通アパートかもしれない。それもいまやなくなってしまったことを考えると、ずいぶん遠い昔のことのように思えてしまう。
話がわき道にそれてしまった。なぜ来たばかりのときに森村泰昌なのか、自分でもその頃から森村ファンだったのか、はっきり憶えていない。東京に来て何もかも珍しく、また情報の氾濫に踊らされ、“東京だからこそ味わえる”という感覚を楽しみたくて、この展覧会を選んだのかもしれない。
モナリザゴッホの自画像といった有名な絵画作品や、写真作品などの登場人物にリアルなほどになりきり、また現実の作品を飛び越えてしまうほどパロディ化して写真に写り込むというセルフ・ポートレイト作品が、いわばグロテスクと言っていいほどの強烈な印象を残す森村作品にとらわれていたことには間違いない。
鮮やかな蛍光グリーンのビニール・ポーチに入っている小ぶりでユニークな図録をいまでも持っていて、絵葉書にもなる作品集と、文字だけの解説集という二分冊になっている図録を眺めると、あらためて森村作品の面白さに惹かれてしまうのであった。
芸術作品中の人物になりきるというのが仕事の中心だから、当然できあがった作品はオリジナル作品に対するひとつの解釈となる。そこに森村さんの批評が介在するわけである。森村作品が素晴らしいものであればあるほど、オリジナルに対する批評の鋭さも鋭角性を増す。
本書はそんな森村さんの「芸術の見方」だから、つまらないはずがない。けっこう思索的な、芸術とは、芸とはといった根元的な問いに対する自説も開陳してあって、文庫オリジナルというわりには重い本でもあった。
たとえばフェルメールの「画家のアトリエ」に触れた「じっと目を見る」という一篇での指摘。ここでは「見る」という行為について論じられている。

結論から先に言うと、美術作品を「見る」というのは、「見ることの価値表明」なのだろうと思う。つまり、「見る」ってやつは、いろんな人間の行為のなかでも、ちょっと別格のたいしたことなんだと、強調したい気持ちの表れとして美術はあるのだ。(36頁)
また表現者として、「表現」という言葉の意味について突きつめて考える。「表現」とは、「表」と「現」の二文字から成り立つ。「表」は「表す」。「苦心惨憺して、なんとかモノを作り出すさま」であり、「現」は「現れる」で、「苦心惨憺とかは無関係に、なにかが自然におのずと生まれてくる様子」だろう。似ているようでけっこう違う意味内容の言葉がくっついているのが「表現」だ。
結論的には、作者が「表」そうと作品に込めた意図とは別に、意図せず勝手に作品のなかから「現」れ、観る人に伝わること、そちらがメインであり魅力的であるとする。
でもこれが生み出されるためには、とりあえず「現」のほうには知らないふりを決め込み、なにか別のテーマを「表=表す」ことに専心しなければならない。
 すると立ちのぼるようにして「現れる」ものがある。この自然に派生する香りのようなものこそをオリジナリティというべきであろう。(154頁)
有名すぎる作品にあえてなりきることで、そこからオリジナリティを「現し」てきた森村さんならではの重みのある指摘である。久しぶりに森村作品の「毒」に浸かってみたくなってきた。