日本人には書きにくい本

韓国の「昭和」を歩く

いまの世の中、過去の事物をなつかしがるという風潮が日ましに強くなっている。もう少し対象を限定すれば、たとえば「昭和」である。昭和にあった建物、モノ、風俗、そうしたものを「レトロ」と呼んで新しい価値を与える。
建築物のような文化財的価値のあるものだけでなく、より生活に密着していた、ごく普通のモノに対する憧れも強くなっている。そうしたモノほど時間が経てば身の回りからなくなってしまう、移り変わりが激しいからだろう。
最近の『東京人』8月号では昭和40年代の東京が特集されている。都電や、食べもの屋、服装といったアイテムが追憶の対象となり、泉麻人さんに至っては看板・張り紙を取りあげ、なつかしそうにふりかえっている。
建物であれば、東京からはすでになくなった昭和の民家などは地方にもまだ残っていると言えるだろう。さらに飛躍させれば、日本の植民地支配を受けていた韓国や台湾などにも残っているのではと思わないでもないけれど、公衆の面前でとてもそんなことを口に出すことはできない。関心があっても、日本人としては口を憚られる話題である。
鄭銀淑(チョン・ウンスク)さんの『韓国の「昭和」を歩く』*1祥伝社新書)を書店で見かけたとき、「こういう本が読みたかったんだ」と喜んで購入した。タイトルにあるように、韓国の各地にわずかに残滓をとどめる日本=昭和の足跡*2を訪ねるというチャレンジングな本だ。
朝鮮総督府庁舎に代表されるように、たとえ文化財級の価値がある建物であっても、いや、そうした建物ほど、強圧的植民地支配の記憶が強くこびりついている。だから、植民地支配の記憶を消去したい気持ちが歴史的価値に優先し、建物は取り壊される。もったいなあとは思うけれど、仕方のないことだ。
鄭さんによれば、植民地時代韓国に日本人が建てた和風の、もしくは和洋折衷の住宅は「敵産家屋」(チョクサンカオク)と呼ばれているという。それらはすべて撤去されたわけではなく、韓国の都市のあちこちにまだ名残をとどめている。解放後韓国人の手で改修されたものもあれば、ほとんど原型そのままに大切に維持されるものも、わずかながら存在するという。
わたしは日本人であり、韓国のことをほとんど知らない。韓国の住まい=オンドル程度の知識しかない。だから、日本と韓国の住宅(とくに外観)の違いがほとんどわからない。日本の住宅が建ちならぶ風景が自明のものであり、何が特徴かという頭がないから、韓国で「これが“敵産家屋”だ」と指摘されて果たして気づくのだろうか。韓国を訪れたら、ひと目で韓国の住宅と日本の住宅の違いがわかるのかもしれないが、想像もつかない。瓦屋根や木造羽目板の住宅などは、どうやら原則的に韓国にはないらしい。
本書で取りあげられている都市は、江景・群山・栄山浦・木浦・釜山・鎮海・大邱・仁川・ソウルの九つ。著者の鄭さんですら、日本の建物を探し歩いていると地元の人から「何が目的なのだ」と鋭く問いただされてしまう。日本人には不可能な仕事なのである。
思ったほど韓国には日本の家屋が残っていて、たとえばドヤ街や色町があったという空間などは、ある意味強烈な雰囲気、表現は悪いが「異臭」を放っている。しかし反面で、日本人にとってみれば妙に懐かしいという思いも禁じえない。まことに不思議だ。
強い印象に残った写真が、韓国第三の都市大邱の一葉だ。コンクリートの壁に日本家屋とおぼしき三角屋根の輪郭が浮き出ている。赤瀬川原平さんが提唱した「トマソン」のなかで、“原爆タイプ”と呼ばれるものかと最初は思った。
ところがそうではないらしい。“原爆タイプ”以上に強烈である。日本家屋の四辺を、その建物より高い壁で固めたものらしい。つまり、四方をコンクリートで囲われた箱のなかに、そのまま日本家屋が残っているのである。壁の表面から、中に日本家屋があることがわかるという構造。地元では「日帝封じ込め建築」と呼ばれているとのこと。
著者の鄭さんは朝鮮文化を日本に伝える著作もあるライターで、それゆえか、韓国に残る日本建築の訪ね歩きルポの部分以上に、韓国の食を伝える文章に惹かれるものがあった。

どこの刺身屋に入ってもサービスがいいのが群山だ。刺身を頼んだだけで、つきだしが20種類を超える。韓国の刺身屋でつきだしが多いのは普通のことだが、群山は群を抜いている。つきだしだけでお腹がいっぱいになりそうで、メインの刺身が食べられるかどうか心配になる。(35頁)
全羅道の人々が当地の食文化の極みであると誇る「紅濁三合」が目の前に供された。エイの刺身と茹でた豚肉を酸味のある深漬けのキムチで包んだもので、ほんのり甘く清涼感のあるマッコルリ(韓国のどぶろく―引用者注)の肴に最高だ。雪降る夜、暖かいオンドルの上で食べるピリリと舌を刺激するエイの刺身とマッコルリの味、……もう言葉はいらない。(80頁)
底の浅い黄色い鍋の中にニンニクと辛い唐辛子粉をたっぷり入れて煮込んだ骨なしカルビ。見るからに辛そうで、ニンニクの匂いも強烈だ。味は甘辛で、よく煮込まれた肉がほくほくと柔らかい。なんといってもニンニクたっぷりのトロリとして薬味がいい味を出している。肉そのものよりも、最後に残った薬味にご飯を入れて食べたのが一番美味しかった。(188頁)
余談だが、著者の「銀淑」という名前は、桂銀淑と同じだ。本書のなかにも、同姓同名の人物が鎮海の海軍士官学校の卒業式で表彰を受けるという話が出てくる。銀淑という名前は女性に付けられる名前としてポピュラーなのだろうか。

*1:ISBN:4396110138

*2:地元では「日帝残滓」と言われる。