はじめての角田光代

空中庭園

何が情報源だったか、誰の指摘だったか忘れたけれど、最近の文学には市井の商店街を舞台にしたような作品が多いという話があって、その代表としてあげられていたのが、堀江敏幸さんであり、角田光代さんだったように記憶している。
大好きな堀江さんであれば、たとえば『いつか王子駅で』や『雪沼とその周辺』がそういった要素を持っているから、なるほどなあとうなずけた。いっぽう角田さんの作品は未読だったから、ふーん、そうなのか、ならば今度機会があったら読んでみようと、角田光代という名前に注意するようになった。
角田さんはわたしと同年生まれということもあって、作品以前の問題として気にはなっており、それから何度か角田さんの本を手に取る機会があった。でもページをめくると目に飛び込んでくる字面が自分の感覚にしっくりこないような気がして、そのつど本をもとの場所に戻すことを繰り返した。そうこうしているうち、角田さんが直木賞を受賞したのである。
今回、たぶん上記の批評が直接念頭に置いていたのではないかと思われる連作短篇集空中庭園*1が文春文庫に入ったので、今度こそいい機会だと、読むことにした。
本書は郊外のマンモス団地で暮らす一家(京橋家)が主人公となっている。何事も包み隠さずというのがモットーで、それぞれの誕生日には飾り付けまでして、該当者の大好きな食べ物を用意して祝うような、表面的には明るい家族だ。連作の体裁で、一篇一篇がこの家族の一人一人の視点で語られるというスタイルになっている。
家族を構成する一人一人が語り手になることにより、読者はその家族のあり方をあらゆる方向から多面的に知ることになる。また、語り手は家族の構成員だけでない。京橋家からそう遠くない場所でひとり暮らしをしているママの母親だったり、パパの愛人で、のち長男の家庭教師として乗り込んでくる女の子が語り手になることで、家族の結びつきが客観的に捉えかえされる。
そこから見えてくるのは、シビアで閉塞的な家族のありさまだ。何事も包み隠さずという裏で、家族は誰にも話せない秘密をそれぞれもっている。この状態が、長男コウの口を借りて、こんなふうに表現されている。

やっぱちょっと田舎だしさ、鍵は開けっぱなしも同然で、他人の出入りとか、ざっくりしてるっていうか、かなり適当にしているんだよな。外の人、わりと自由に招き入れるんだけど、家のなかにもう一個見えない扉があってさ。こっちの扉は、絶対開けないっていうか。暗証番号も教えないし。表玄関は広く開いてるんだって宣伝して、オートロックのほうを隠してるんだよね。そんな感じ。(「鍵つきドア」)
一見開放的でありながら、実は誰にもひらけないような、見えない扉があり、そこから奥には決して誰にも踏み込ませない。そんな扉が家族の人数分だけ存在する。秘密を持たないオープンな家族という偽善のかげにひそむ人間の裏側、人間関係の裏側。恐ろしく、リアリティがある。
解説の石田衣良さんは本書を「乾いた絶望」と表現し、これを書いた作者を「暗い角田光代とする。これに対し、直木賞を受賞した作品『対岸の彼女』は「しっとりとした希望」を持ち、「明るい角田光代の側面が出ているという。
カバー裏に刷られている紹介文には「連作家族小説」とあって、となるとやはりわたしとしては、「家族小説」最高の書き手であると信じる重松清さんの作品と比べないわけにはいかない。ほぼ同年代、女性と男性、現代における「家族」という人間集団をそれぞれどのように捉えているのだろう。
ただ、本書『空中庭園』が角田さんの作風の一面しか伝えないものだとすれば、『対岸の彼女』を読んであらためて重松さんとの対比を考えたほうがよさそうだ。
本書帯には、本書を原作とした映画が制作され、この秋小泉今日子主演での映画公開が決まっているとある。この多重的視点による複雑な物語を映画はどのように表現するのだろう。小泉今日子はこの家族のどの役を演じるのだろう。
調べてみるとやはりキョンキョンはこの家族の結節点であるママの役のようだ。でも原作を読んでわたしが抱いたイメージと合わない*2。本書を読みながら、帯にある小泉今日子のスチール写真を何度見返してみても、登場人物の像とうまく合わないので、逆にどんな映画になってるのか興味を持ってしまった。

*1:ISBN:4167672030

*2:ちなみに、パパの役は板尾創路(合うかも)。長女役に鈴木杏(彼女が演じるとどんなふうになるか注目したい)。長男に広田雅裕(新人のようだ)。愛人で家庭教師の女の子ミーナにソニン(これは適役)。小泉の母親役に大楠道代(あまり知らないが、写真を見るかぎり適役)。