饒舌が似合う都市

東京小説

野坂昭如さんの連作短篇集『東京小説』*1講談社文芸文庫)を読み終えた。
最後に配された「山椒媼」を除き、各篇が「東京小説 ○○篇」というタイトルで統一された短篇小説の連なりから構成されているが、それぞれが内容的に関係しているわけではない。いずれも都市東京を舞台にしているという点で共通するだけ。
それぞれの内容に即したタイトルが名づけられた短篇の集まりであっても、十分短篇集としてのきらめきを失わないと思われるのだが、そうした個性の主張を「○○篇」の○○の部分だけに圧縮し、「東京小説」という通しの冠を付けると、バラバラの珠を糸でつなぐとひとまとまりの数珠になってしまうように、ひとつの芸術作品となるから不思議だ。
通しタイトルの「東京小説」も、考えてみれば「東京」と「小説」という、手垢にまみれた何の変哲もない単語同士の組み合わせなのだけれども、ふたつの言葉を結びつけることによって特別な様相を帯びてくるような奇跡を生む。
改行があまりなされず、地の文も会話も途切れなくつづく、野坂さん独特の饒舌な文体は、個人的にはあまり好きなほうではないのだが、読んでいくとその饒舌な語りのリズムにいつのまにかとらわれ、引っぱられている。饒舌体がかもしだす雰囲気が、まるで荒木経惟さんによるモノクロームの写真のような、隠微な香りを放っているのである。「東京小説」なんていうタイトルも、アラーキーの写真集にありそうなタイトルだ。
ずっと読んできて、「東京小説」最後の自伝的な「私篇」と、それに続く最後の一篇「山椒媼」はひときわ凄絶な怪談といったおもむきがあり、背筋が寒くなる。
妻と娘たちが海外旅行中に、突如家の中の雑多なモノを片付けずにはすまなくなり、一心不乱に掃除片付けを行なう「ぼく」の姿が狂おしい「私篇」。
夫から受け継いだ地所を守り抜き、そこに建てた四階建てビルの最上階にある住まいからほとんど外出することなく籠もり、果ては外に出られなくなるほど太ってしまった老婆たちの哀しみともユーモアともつかない姿が凄絶な「山椒媼」。もし「現代怪談集」のようなアンソロジーがあったら、ぜひ推薦したい一篇だ。
「家庭」を幻視する中年女性の物語「家庭篇」、若い頃に酔ったあげく犯したかもしれない犯罪を種に友人らにたかられる出版社社長の物語「友情篇」、近親相姦的関係にある美男美女の兄妹が自分たちの楽園を侵されまいとする物語「相姦篇」、祖母・母・娘三代にわたり強姦され子供を妊娠し、堕胎するという因縁物語「血縁篇」、長らく謎だった父の豪勢な生活の原因を知る「ルーツ篇」、この世において誰が医者で誰が患者なのか判然としなくなる「夢の島篇」、このあたりの語りが無類に面白い。
ところで「山椒媼」中にこんな一節がある。

何の不自由もなかった。というより、街そのものがお婆さんに合わせて変っていった。(224頁)
「東京小説」連作13篇は、ある意味街の推移に合わせて人間が変わってゆくような物語だとすれば、最後にきてくるりと裏返したかのように逆のパターンの物語に転じるという見事さ。人間に合わせて変わる東京の町。どちらが主でどちらが従なのか、本当は町が人間に合わせて変わることこそ健全な姿にほかならないだろう。しかし東京にあっては、そんな状況が滑稽になってしまう。
実は発表順で言えばこの「山椒媼」が「東京小説」連作より先行するというからくりがある。発表順とは正反対に連作の最後に並べることで、これほどまでに劇的な効果がもたらされるとは。
都市東京は何かを語りつづけ、そこに住むわたしたちも、誰かに何かを語りつづけようとする。東京はかくも饒舌が似合う都市なのかということを、この作品集で思い知ったのだった。