叡智の結集としての「お言葉ですが…」

お言葉ですが…6 イチレツランパン破

高島俊男さんのお言葉ですが…6 イチレツランパン破裂して』*1(文春文庫)を読み終えた。
最近このシリーズはたいてい文庫発売後ほどなく読んでいる。新読前読後として「はてな」に場所を移してからは、『4 広辞苑の神話』(→2003/5/26条、ただしこれは旧読前読後からの移植)と『5 キライな言葉勢揃い』(→2004/6/16条)の感想を書いている。
シリーズ作品は、続刊になるほど感想を書くのが難しくなるものである。でもこの『お言葉ですが…』シリーズは少ない例外だ。新しい冊が出て、それを読むたびに目から鱗が何枚も落ち、そのことについて書かずにはいられなくなるからである。
前冊『5 キライな言葉勢揃い』では元同僚の先生がコテンパンにやっつけられていて、肝を冷やしたものだった。本冊では、職場の先輩どころか、明治の頃の大大先輩重野安繹や久米邦武が登場する。もっとも重野や久米が批判の対象ではないが。批判の対象といえば、本冊では面識のある先生の文章が槍玉にあげられ、職業適性を問われていた。ひやあ、怖い怖い。
『4 広辞苑の神話』の感想では、〔あとからひとこと〕の双方向性を称揚し、そこで紹介される読者からの便りについて、「それにしてもこの双方向性を見ていると、『週刊文春』とは日本国民の叡智の結集であるものだなあと感嘆してしまう」と書いた。本冊に収められた一篇「「あがり」と「くずれ」」の〔あとからひとこと〕を読んだときにも「叡智の結集」という言葉がひらめいたのだった。そのあと前の冊の感想を確かめると、上記のように、すでに同じことを書いているではないか。苦笑せざるをえない。
「「あがり」と「くずれ」」の〔あとからひとこと〕は、まったく知らなかった海軍予備学生制度のことや、予備学生と海軍将校の違い、また陸軍との違いが、複数の読者による投稿をもとにわかりやすく紹介されている。「「あがり」と「くずれ」」の主旨と直接関係する議論ではないのだが、直接関係しない問題について何人もの読者から訂正を求める便りが届けられ、その点の事実関係が整理され明らかになっていくのだから、やはりこの本はすごい。
本書を読んでもっとも感銘を受けた一篇は「白髪三千丈」だった。李白の詩の一句であるこの部分は、中国人の大げさぶりを示すものとしてよく引き合いに出されるという話から出発し、ならば「三千」でなくもっと大きい数字でもいいかというと、この場合はどうしても「三千」でなければならぬとピシャリ断言、その理由を明快に説明する。なるほど、と目から鱗が何枚も落ちた。
高校生の頃だったか、漢文の授業で、漢詩が韻をふむことについて教わった。そのとき先生は、漢詩はたんに韻をふめばいいのではなく、発音についてのルールもあるのだと付け加えたのを聴いて、「こりゃ自分には作れない」と思ったのだった。もちろん漢詩を作ろうと志したことはなく、作る能力を棚にあげてそう思っただけなのだけれど。
「白髪三千丈」を読んで、そのとき先生が言っていた発音のルールというのは、このこと(平仄)を指していたのかと納得した。短い期間だけど大学で中国語を受講していた経験もあるから、中国語の発音における平音と仄音の違いを何となく憶えていたというのも大きい。この一文の明快さはまことにもって見事だった。
ところで本書を読んで気になったこと。たとえば「小生の妹」という言葉につづけ「(もちろん六十をすぎたばあさんです)」とあって(71頁)、「小生幼時よりおむかいさんだったサヨちゃんという同い年の女の子がいる」という一文には「(いまはもちろんもう「女の子」じゃないけど)」とあるように(82頁)、わざわざ括弧書きで補足がなされてある。
読みながら、「いちいち補足しなくとも読者は理解するんじゃないの?」と思ったのである。これはどういうわけなのだろう。かつて補足なしに書いたら誤解を招いたとか、高島さんご自身、他人の文章でそうした言葉(「妹」や「女の子」)を目にするとつい若い女性を連想してしまうことが、無意識に自分の文章に補足を付けさせたのか。いや高島さんのことだから無意識なんてことはありえまい。
「妹」「女の子」という言葉がすなわち「若い女性」を意味するわけではないことは自明だろう(「女の子」は若干そういうニュアンスがあるか)。しかし文脈と無関係にこうした言葉を目にするとつい「若い女性」をイメージしてしまうのはなぜか。これは「お言葉ですが…」のテーマになりうるかな。