池波正太郎の日記を味わう

映画を食べる

高校の頃「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」が封切られ、夢中になった。スター・ウォーズ・ファンクラブなるものにも入会し*1、地元の映画館が組織した映画サークルにも入っていた。横溝映画三本立てを観切る体力もあった。
しかし「ジェダイ」旋風が過ぎ去ると、ぷつりと映画とも縁が切れた。逆に東京に来てからは映画館という空間は苦手の部類になったのである。最近古い日本映画をよく観るようになって、ようやくこの苦手意識が払拭されつつあるけれど、まだ息苦しくなることがある。いい映画を観ているときですら、時間を気にして暗い中時計を見ることがある。
子供の頃から映画というものが娯楽の中心であった大正、昭和前半生まれの人びとが映画に寄せる情熱を語る文章を読むと、羨ましい反面、遠い世界の出来事のように見える。この世代の人の映画への思い入れはときに異常というほど強く、映画さえあればあとは何もいらないという感じなのだ。
そうした映画好きの一人に池波正太郎さんがいる。先般文庫化された『映画を食べる』*2河出文庫)を読んだところ、楽しそうに映画を語る語り口に、語られる映画や俳優らをまったく知らない身ながらも、ぐいぐい惹き込まれてしまった。
冒頭の一文「映画と私」では、

当時の私は、生まれ育った東京の生活しか知らぬが、いかな貧乏暮しといえども、東京で生きている以上、たしかに生き甲斐があった。
とし、その「生き甲斐」のよりどころが映画だったと書いている。映画は食事と同じだとまで書く。映画がないと生きていけないというわけだ。だから『映画を食べる』という書名は、こんな池波さんの映画への情熱を見事に表現している。
本書は1970年代に書かれた映画エッセイ・映画評を集めた本である。対象の多くは洋画だ。邦画については、時代劇中心で、血が噴き出す黒澤式のリアリズム(ばかりを真似る手法)に批判的だ。殺陣の芸術的な美しさを称揚している。
本書でとくに好きなのは、分量にして半分を占める「映画日記」だ。『小説現代』に1974年から75年にかけて連載されたものだが、後年の日記文学の傑作池波正太郎の銀座日記〔全〕』*3新潮文庫)を思わせる面白さで、つい同書を書棚から引っぱりだしてきてしまった。
もとより「映画日記」だから、試写や街の映画館で観た映画の感想などが中心となっているが、「銀座日記」に見られる散歩者、健啖家ぶりもいかんなく発揮されている。いきなり一番最初の日付で、自分でチキンライスをこしらえたというそのレシピが丁寧に書かれており、すでにこの時点で口の中に唾液が出てきた。
上に引用した一文にもあるように、池波さんは東京(浅草)で生まれ、モダン東京の空気を吸って育った。日記を読むと、いかにも都会人だなあというくだりが散見して、羨ましくなる。羨ましいというのは、行動を真似することはたやすいが、「真似する」にとどまって自然に身に付きそうにないからだ。たとえばこんな余裕のある散歩は、私は自然にはできない。
さわやかに晴れわたって風もなく、絶好の散歩日和だ。だから、少し早目に家を出て、銀座を歩く。腕時計を一つ買う。コーヒーを飲む。巻紙を買う。筆を買う。Mへ寄って、ハム・サンドイッチでビールをのむ。ささやかなる半日の、私の休養である。(185頁)
またこんなライフスタイル。
日本橋の〈はやし〉で天ぷらを食べてから、銀座まで歩き、明治屋に寄ってアフター・ディナーミンツを一箱買う。このペパーミントの入った薄い小さなチョコレートは、私の大好物だ。仕事を終えたあとで、ウイスキーを、このチョコレートでのむ。(146頁)
もうこれ以上引用しないが、小説家的感性が光る街や人の観察にもうならされ、むろん映画評は暖かくも鋭い指摘に満ちている。洋画をほとんど見ない私にとっても、飽きがこない内容だった。こんな映画エッセイなら、映画の内容を知らなくても楽しく読める。

*1:だから「ジェダイの復讐」の原題が「Return of〜」の前は「Revenge of〜」であることを知っており、「リベンジ」という単語はこのとき初めて知った。「リベンジ」だと語感が強すぎるということで「リターン」に変更されたのだったと思う。

*2:ISBN:4309407137

*3:ISBN:410115659X