未完小説の誘惑

百間先生 月を踏む

久世光彦さんが急逝されたあと、追悼に寄せて書かれた新聞記事か何かで、内田百間を主人公とし、百間の小説を自ら書いて「作中作」として織り込んだ作品を執筆中だったという話を知り、心の底からそれを読みたいと欲した。なにせ乱歩の小説以上に乱歩らしい「梔子姫」が作中作として配されている『一九三四年冬―乱歩』*1新潮文庫)を書いた人である。次もまた大好きな内田百間をモデルにそうした試みをされていたと聞いて、あらためてその死を惜しまずにはいられなかった。
わたしは小説誌というものを読まないから、この作品が『小説トリッパー』連載中で、最終回を残すのみだったということをまったく知らなかった。だから、書籍部でそれがまとめられた『百間先生 月を踏む』*2朝日新聞社、書名の「間」はもんがまえに月)を目にしたとき、驚くとともに大喜びしたことは、言うまでもない。亡くなって一ヶ月あまりで遺作が本になるというのは、何とも手早いものだ。
本書の舞台は小田原。百間は借金取りその他もろもろの雑事から逃れ、旧知の柳絮和尚が住職をつとめる経国寺の一間を借り、逼塞している。彼の身の回りの世話をするのが、和尚の弟子で15歳の小坊主果林。寺坊の一室で苦吟しながら日銭を稼ぐため原稿を書きつづける(それが作中作として掲載されている)。果林や和尚、和尚の妻の大黒さん、小田原の色町〈抹香町〉の娼妓、〈抹香町〉そばの飲み屋〈達留満〉の常連である飲んべえの竹さんとの間で展開する会話の妙と、百間の小説家としての経歴を踏まえ批評的に創られた「百間小説」のいかにも百間的な幻想世界。
読んでいくうち、この話の時制が昭和22年から23年にかけてに設定されていることがわかってくる。職業柄史実はどうなのかと、年譜を調べたくなる。たとえば池内紀編『百間随筆2』*3講談社文芸文庫)所収の年譜によれば、前後の年の記事が比較的豊富であるのに対し、昭和22年は「この年、再厥本、編纂本、増刷本を多数刊行」*4とのみあって、百間自身の動きがまったく触れられていない点目立つ。翌23年には空襲で家が焼かれて以来住んでいた麹町五番町の掘立小屋から六番町の「三畳御殿」に転居し、その年11月に「サラサーテの盤」が発表される。
『百間先生 月を踏む』では、『冥途』『旅順入城式』にまとめられた幻想的短篇が書かれた大正年間から、30年におよぶ「空白期間」を経て「サラサーテの盤」が書かれる直前の百間が置かれた状況を推理し、なぜ百間は30年ものブランクを置いて幻想的短篇を書くことになったのか、といった謎を小説として表現しようとしたのだろう。
このことは、巻末にある坪内祐三さんの解説を読むとよくわかる。生前久世さんは、本書刊行のあかつきには坪内さんに「百間の書誌的部分、特に「冥途」「件」をはじめ、短篇を集中的に書いていた時期、また戦後に「サラサーテの盤」を書いていた時期の百間について解説を」書いてもらいたいという意向を編集者に示していたという。坪内さんはこれを受け、なぜ本作品で久世さんは昭和22-23年の小田原という架空の設定をほどこしたのかについて、鋭い指摘を行なっている。
坪内さんはまた、ここで登場する「竹さん」について、これは川崎長太郎「抹香町」の主人公の名前であることを指摘し、百間と川崎長太郎(=竹さん)を小田原にて交錯させた意図についても忖度している。
本作品は連載時は昭和25-26年という設定で書かれており、坪内さんも解説で「この作品は絶対に昭和二十五年の出来事でなければならなかった」と力説し、示した根拠も実に説得力がある。昭和25-26年であることを裏づける「歴史的事象」も物語中にちりばめられている。
ところが巻末の「編集部付記」によれば、単行本化するにあたっての生前の意向は、百間が「サラサーテの盤」を発表する以前、つまり昭和22-23年に修正するものだったという。物語の流れは実際にそのようになっている。「サラサーテの盤」発表以後の話(昭和25-26年)だと、流れとして辻褄が合わなくなるのだ。
説得力のある坪内説に反して昭和22-23年に設定しなおす意志があったとすれば、もし著者の急逝がなければ、単行本化のさい、相当な加筆修正がなされたに違いない。その意味では本書はまさに「未完成」の小説と言っていい。ただこの未完成ゆえ本書にはさまざまな謎が秘められ、読者としてはそれを解き明かしたいという誘惑にかられる。
前述のように、年譜では昭和22年の百間の行動は謎に包まれているように見える。作中でも百間と竹さんの間に、こんな思わせぶりな会話が交わされている。

「ところで先生は、いつまで当地に滞在なさるお心算ですか」
「幸いここは借金取りにも知れていないようなので、もうしばらくは」
「ひょっとして、将来、先生の年譜で、空白の時期ということになりますかな」
「それは重畳。願ってもない」(102頁)
しかしこれはあくまで年譜上の記述に過ぎないのであって、身も蓋もない話ながら、この時期の百間の日々は『百鬼園戦後日記』上・下(小澤書店)に書きとめられている。別に小田原に身を隠していたわけではなく、「年譜の空白」=失踪ではないのである。そうした「史実」を枉げ、わざわざ小田原という地に舞台を設定して川崎長太郎の小説の登場人物と交錯させた意図はどこにあるのだろう。
小田原といえば牧野信一がいて、以前『牧野信一全集』刊行のおり催されたトークショーで、種村季弘さんが牧野にこと寄せて小田原という町の歴史的文化的特質を鋭く指摘していたことを思い出すが(旧読前読後2002/5/20条)、はて肝心の「歴史的文化的特質」とは何だったか、すっかり忘れている。たとえば「ピュグマリオンふたたび」という牧野論*5のなかに、「もともと小田原四座のにぎわった小田原という町が、かなり芝居っ気たっぷりの土地柄なのである」という指摘から断片的にうかがうしかない。
これとは別にひとつ気になることがある。これまた百間と「竹さん」の会話である。
藤澤清造をご存じですね」
竹さんは歯がないから、口のあちこちから息が洩れて、言葉がたいそう聞き辛い。
「〈根津権現裏〉ですね」
「竹さんの物言いが伝染ったのか、先生の声も今日は暗い。
「やっぱり気になりますか」
竹さんが嬉しそうに一膝乗り出す。
「やっぱり気になりますな。あれは何年でしたっけ」
「大正十一年です」
「陰気な小説でした」(151頁)
藤澤清造の話はここにしか登場しない。唐突に話題になり、それだけで終わってしまう。この会話は全五章(第五章は未完)のうち第三章に出てくる。これだけなのだろうか、書かれなかった第五章の後半につながるのではないかという想像も、未完だからこそ許されるだろう。というのも、百間自身、明治末年に「根津権現裏」に住んだことがあるからである。例のS字坂上だ。
坪内さんの解説によれば、脱稿まであと80枚書き足される予定だったという。この80枚のなかでどんな百間小説が創作され、どんなふうに小田原と百間の関わりが明かされたのだろう。不謹慎な物言いながら、「未完小説」の魅力は、宙づりにされたままの謎を惜しみつつ推理する愉しみを読者に与えてくれることにあるような気がする。

*1:ISBN:4101456216

*2:ISBN:4022501863

*3:ISBN:4061982850

*4:「厥」字は右に「りっとう」あり。

*5:河出書房新社種村季弘のネオ・ラビリントス8 綺想図書館』(ISBN:4309620086)所収。なお種村さんの『東海道書遊五十三次』(朝日新聞社ISBN:4022576103)のなかで、岡本綺堂『半七捕物帳』・牧野信一『熱海線私語』・坂口安吾『明治開化・安吾捕物帖』をあげ3回にわたり小田原を取り上げているが、有効な指摘は残念ながら見あたらない。