都市の語り手

散歩のあいまにこんなことを考えていた

松浦寿輝さんの新著『散歩のあいまにこんなことを考えていた』*1文藝春秋)を読み終えた。
本書はいわば「雑文集」で、ここ十数年の間に各雑誌・新聞に寄稿した短いエッセイや受賞の言葉、アンケートのたぐいがたくさん収められている。「断簡零墨趣味」「初出一覧好き」のわたしを満足させる構成である。これよりもう少し「評論」寄りの文章は、ほぼ同時にみすず書房から刊行された別著『青の奇蹟』*2 に収められているようだが、内容的に近づきがたく、値も張る(3000円)から買うのはひかえた。
松浦さんの本については、これまで短篇集『もののたはむれ』(文春文庫、→2005/7/15条)しか読んだことがないが、その小説もそうだし、何かのおりに目にしたエッセイを読んで以来、“東京散歩者”“東京観察者”としての一面に注目していた。本書には、その側面で書かれた文章が多く含まれている。
それによれば松浦さんはもともと台東区竹町生まれで、一人暮らしを始めてから、白山、千駄ヶ谷、世田谷区松原と少しずつ西遷し、いまでは三鷹市にお住まいを構えておいでらしい。そんな下町も山の手も武蔵野も知っている方の東京散歩エッセイ、あるいは少年時代の回想エッセイはなかなか読み応えがある。
本書の柱のひとつは、「Ⅰ」としてまとめられた「こんな小さな物たちがいとおしい」だろう。日本経済新聞夕刊「プロムナード」に半年の間週一回連載されたコラムである。このコラム欄といえば、同じ仏文学者の堀江敏幸さんの文章を思い出す。ここに書かれた堀江さんの文章は『回送電車』*3中央公論新社)に収められている。
堀江さんと松浦さん、同じ仏文学者で、小説もものし、芥川賞作家という共通点もある。ぶらぶら散歩を愛し、「物」に対するこだわりを隠さない。文章の雰囲気も似ていることもあり、堀江ファンとしては、この松浦さんの新著にも注目しないわけにはいかないのであった。
ただ通読してみると、堀江さんとの違いも際だってきて、なかなか面白い体験だったように思う。上記連載コラムのなかで、松浦さんは「猫」「猫、ふたたび」「猫、さらにまた」「猫、最後に」と、17年間寝起きをともにした愛猫「ミケ」の死を悼む文章を書かれている。
「猫、ふたたび」のなかでは、内田百間のかの「ノラや」を引き合いに出し、「そこでの百間の取り乱しようは尋常ではなく、何やら狂気の気配すら漂っている。たかが猫一匹の失踪に、大の男のこの身悶えるような悲嘆はいったい何なのかと、最初のうちは呆気にとられてしまう読者も、読み進めるうちに、その異様な迫力には心を深く動かされないわけにはいかない」と書いているが、愛猫の死にさめざめと涙を流すどころか慟哭し、四回にわたって追悼文を書かずにはいられなかった松浦さんの「取り乱しよう」にも心を動かされずにはいられない。
心を動かされたというのは別の意味もある。松浦さんはこういう文章も書くのかという驚きである。そんな思いで本書を読んでいくと、自らの好き嫌いをエッセイを通じて表明してくれるおかげで、だいぶ松浦寿輝像の輪郭がくっきりと浮かび上がってきたような気がする。
けれども、「好き嫌い」のうち「嫌い」のほうを取り上げる場合、どうも「嫌い」に属する物(あるいは事象)に対する批判が紋切り型であるのが気になってしまう。「嫌い」なものも「好き」なもの同様等しく取り上げるという作家的良心がそうさせるのか、「嫌い」なものへの嫌悪感表明に至ると、他の文章で発揮されている仏文学者的エスプリ、詩人としての繊細な言葉づかいが影を潜めてしまうような気がしてもったいない。
そういう違和感を書くのはわたしも得意ではないから、これ以上書かない。そのいっぽうで、「やっぱりいいなあ」という文章も多かったから、そちらを紹介することにする。次の文章はわたしにとって本書随一のものである。

ビアホールというのはわたしにとって、孤独が確保できる滅多にない空間なのだ。部屋に一人で閉じ籠もっていてもそれは単に「一人でいる」だけのことで、「孤独である」こととは違う。「孤独」というのは本当は、ざわざわした街の群衆のただなかでしか味わえない感情ではないのか。そして、盛り場のビアホールの片隅は、かすかな倦怠感と混じり合ったそんな「充実した淋しさ」を享受できる、特権的な場所なのである。(「ビアホール」)
この「都会の孤独」論・ビアホール論だけでなく、カフェという空間に対する鋭い洞察の文章もあり(「カフェに機械は馴染まない」)、都市空間の語り手として、今後も松浦さんの文章に注目していこうと思わせられたのであった。