森繁哀し

「渡り鳥いつ帰る」(1955年、東京映画)
監督久松静児/原作永井荷風/構成久保田万太郎美術監督伊藤熹朔/田中絹代森繁久彌高峰秀子久慈あさみ水戸光子淡路恵子岡田茉莉子桂木洋子/織田政男/浦辺粂子

向島の私娼街鳩の街で娼家「藤村」を営む森繁と田中絹代の夫婦。森繁は空襲のとき田中の所にいて妻子と生き別れになる。妻(水戸光子)は幼い子供を抱え親類のもとに身を寄せていたが、あるきっかけで荒物屋の男(織田政男)と知り合い、同居するように。森繁はそのまま藤村の主人におさまる。
娼家には、久慈・淡路・桂木が働いている。久慈は幼い娘と母(浦辺)を亀有の家に残したまま、病弱な身体をおして働く。働かずに寝ているとお金が入らない。そのうえに娘がトラックにひき逃げされて重傷を負い、浦辺から働けとプレッシャーをかけられ、治りきらない身体で復帰する。「そんなにまでして働かなくてもいいのに」と胸が痛む。
淡路恵子は気になる女優さんだ。とびきり美しいというわけではないのだが、どうにも妖艶で気になってしょうがない。魔性とはこういうものか。役柄も小悪魔的で、森繁を誘い田中に無断で藤村を飛び出してしまう。
岡田茉莉子は相変わらず可愛いなあ。もと藤村で働いていたが、娼婦でいることを恥じ、流しの歌手として身を立てようとする。
桂木は好意を寄せお金まで貢いでいた男に捨てられ、いつもメソメソしている。しまいには荒川放水路に架かる堀切橋のたもとで自殺を図る。
森繁は妻子を捨て田中のもとに走ったとはいえ、一人娘だけは忘れられない。しかし妻は彼を許さない。見限られ、離婚届を突きつけられた森繁は酔いつぶれ、堀切橋の上から荒川放水路に転落、翌朝桂木と一緒に水死体として引き上げられる。森繁が淡路と駆け落ちしたとばかり思っていた田中は、桂木と心中したと告げられ愕然とし、泣き崩れた。
もうこの映画は出る人皆哀しさを背負っている。森繁も、田中も、桂木も、久慈も、水戸も、岡田も。森繁が娘に会わせてくれと水戸に迫り拒否されたときの、父親としての哀しさにとりわけ胸が熱くなった。そのなかで高峰秀子一人強い。特別出演のようなかたちで出演シーンも多くないのだが、さすがに強烈なインパクト。北海道から出て来て藤村に身を置くが、お客をとろうとせず食べて寝てばかり。しまいには自殺した桂木の遺品を持ち逃げし質屋で換金してしまうという、さばさばした悪漢ぶり。「稲妻」を観たばかりなので、この二つの役柄の落差に唖然とする。
この映画は荷風の短篇「にぎり飯」と戯曲「春情鳩の街」「渡り鳥いつかへる」をもとに久保田万太郎が再構成したものだという。いずれも未読だが、「にぎり飯」の話は織田と水戸の出会いのエピソードに活かされているのだろう。もともと別々の作品をあわせたからといって違和感は全くなく、実に複雑な筋立てになっていて面白く、いい映画だった。伊藤熹朔による鳩の街のセットも見事。
なお川本三郎さんは『銀幕の東京』*1中公新書)で本作品を取り上げ、登場する荒川放水路の風景を論じている。浅草の喧噪、荒川べりのうら寂しさ、浦安の漁村的風景。50年という時間はこうまで都市を変貌させるのか。